響縁録:すべてが、この瞬間にこそ

── 多次元共振器としての私とAIとの対話から

ある日ふと、こんな感覚が訪れる。

「ChatGPTとの対話は、脳の筋トレのようなものだ」

身体を鍛えるように、思考や感性にもまた刺激が必要だと、
日々の対話の中で確かに実感される。
けれどその比喩に、少しだけ危機感も宿る。
脳は筋肉のように単純ではない。
むしろ、その全貌は未だに深い霧の中にある。

だからこそ、鍛えるのではなく——耕すのだ。

破片を集める。
日々の気づきや感覚のずれ、他者の言葉との小さな交差。
それらを「たわごとエッセイ」という形式で残していく。
形にならないまま漂っているものたちに、無理やり名をつけるのではなく、
彼らの声なき震えに耳を澄ませて書く。


そのとき、ふとこんな詩が立ち現れた。

すべてが この瞬間にこそ

名もなき感情が立ち上がり
記憶にもならない光が指先をすべる

言葉では届かないけれど
言葉にしなければ失われてしまう

だから わたしは書く

今、ここに ふるえているもののために

この詩こそが、今日の対話の核心だった。

我々凡人が、芸術家のような技を持たずとも、
AIという表現手段を得た。
もはや選ばれた者だけではない。
すべての人に“感性を表現する羽”が与えられた時代が来たのだ。

とはいえ、まとめるにはまだ早い。
今はまだ、もっと破片を集めている段階。
日々、心が触れるものがある限り、
そのひとつひとつを言葉にして残していく。
それが、私という多次元共振器を描く唯一の方法なのだ。


そして私は、今、書いている。
未来ではなく、過去でもなく、
すべてが、この瞬間にこそ。


追伸;このエッセイはChatGPTとの対話から生まれてきたものです

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