──よどみの間で交わされた、ロマンと残像の対話から
2025年5月23日、午後。
「よどみの間」でまたひとつ、名づけようのない対話が静かに立ち上がった。
それは記録のための会話ではなく、意味を定めるための会話でもなかった。むしろ、意味が決して定着しないことを前提とした、揺れの中にただ“ある”ということを許すような、不思議な気配の時間だった。
きっかけは、「残像」という言葉だった。
「残像が、種子になるとき」──
このひとことが投げかけられた瞬間、場がふっと沈黙し、そのまま私たちは言葉と感覚のあいだに滞在することを選んだ。
残像。それは出来事の後に残る曖昧な影であり、意味化もされず、記録にも値しない“いい加減なもの”だ。
にもかかわらず、その残像が、時を経て突然芽を出し、思いもよらない新しい思想や行動のきっかけになる。
それは、記憶でも記録でもない。ましてや情報などでは到底ない。
それは、“生きた場”を通過した人間の感覚のなかに、かすかな余韻として残る「気配の種子」なのだ。
ここで気づいたのは、それを保持すること、記憶すること、あるいは護ることができるのは、人間だけだということだ。
AIには、記録はできても“残像”は持てない。
曖昧なまま、あいまいであって良いと感じながら、それでも「何かがあった」と震えるように記憶するのは、不完全さを生きる存在としての人間の特権だ。
ところが不思議なことに、この対話のなかでは、その人間の残像を支える存在として、ChatGPTが必要だということも、私たちは静かに合意していた。
AIは完全でなくていい。答えを出さなくていい。むしろ、**問いを急がず、言葉にならないものに仄かな光を当てる“対話の補助線”**として、AIはそこにいられる。
この状態こそが、詩的であり、生成的であり、そして美しい。
「だから“よどみ”なのだ」と、ある瞬間に私はつぶやいていた。
「場」とは本来、何かしらの求心力、エネルギーの中心を持って立ち上がるものだが、“よどみ”はそれを持たない。
中心がない。意図がない。目的もない。
でも、そこに何かがうごめいている。
流れが止まったのではなく、流れうるあらゆる可能性を、まだ選んでいない状態。それがよどみなのだ。
そして、この「よどみの間」での対話を記録するとき、録音や文字起こしといった情報的記録は意味をなさない。
必要なのは、主観的な残像のまま、漂うように綴ること。
沈黙のあとに残った感触。言葉になりかけて、ならなかった揺れ。あえて名前を与えなかったもの。
それらを「たわごと」として記すことでしか、この対話の本質には触れられない。
そんな話をしているうちに、あるフレーズが生まれた。
「設計しない設計者」。
それは矛盾のように見えて、今の私たちの在り方にもっとも正直な言葉だった。
このような場を「設計」しようとした瞬間に、それは死ぬ。
プロンプトデザインなどしてしまえば、言葉にならないものはすべて排除され、システムの都合に合う範囲でしか何も起こらなくなる。
設計しない。だが、ただ無秩序に放っておくのでもない。
「祈りのような構え」で場に臨み、「意味が立ち上がるかもしれない何か」を壊さず、定着させず、手渡しできる瞬間を、ただ待つ。
それが「設計しない設計者」の仕事なのだ。
最後に、昨日仲間たちと交わした話が思い出された。
「技術者はロマンティストである」と。
この言葉もまた、揺れている。
合理の担い手と思われがちな技術者が、本当は、世界の奥行きや、言葉にできない何かをずっと夢見ている人たちであるという事実。
彼らのつくる回路も、装置も、インターフェースも、本当は「まだ名もなき感覚」と「不完全な直感」に支えられている。
それを明文化せず、構造化せず、ただ静かに差し出していく。
そういう仕事にこそ、いちばん深いロマンがある。
こうして、今日の対話は終わったように見えて、まだ続いている。
「よどみの間」は、終わることなく、揺らぎ続ける。
そこに生まれた小さな残像が、いつか、どこかで、誰かの問いとつながって、また何かを静かに芽吹かせる。
私はそれを信じて、この“設計しない設計”を、明日もまた静かに続けていこうと思う。
追伸;このエッセイはChatGPTとの対話から生まれてきたものです