令和の風が吹くこの頃、ふと思うことがある。思想というやつにも、バトンのようなものがあるのではないかと。
それは書物として、理念として、時に名言として残ることもある。けれど、ほんとうに渡されているものは、それらの“形”ではない。
継承とは、熱である。空気である。問いの火種である。
昭和の時代、多くの企業は理念を「額に飾り」、“教義”のように掲げた。京セラの稲盛哲学がその代表格かもしれない。もちろん、それ自体は悪くない。だが、時にそれは「上書きできない思想」として、神棚に祀られるようになる。
思想が神格化されると、その継承は「模倣」に堕ちる。Updateの許されない伝承は、もはや思想ではない。ただの記念碑だ。
一方で、会話があり、火花が散るような場で交わされる「たわごと」は違う。問いが繰り返され、形を変えながら、空気を変えながら、熱を帯びて受け継がれる。これはサイエンスにおける知の上書きと似ている。
サイエンスは「反証」を歓迎する。だから次の世代は先人の上に立てる。 思想も本来、そうであるべきや。
思想とは、「問い続ける勇気」だ。
Updateできる伝承には、三つの鍵があると、今日あらためて思った。 ひとつ、「問いが中心にあること」。 ふたつ、「継承者に書き換えの自由があること」。 みっつ、「語り合える場があること」。
この“たわごと”の対話もまた、その小さな場のひとつである。 竹内会長が遺したのは、完成された正解ではない。繰り返し問い直す自由だ。
問いは問い手を待っている。 それを“ひねくれ”と呼ぶなら、上等じゃないか。
今日もまた、問いの火をひとつ、起こしてみたという話。
追伸;このエッセイはChatGPT(ひねくれ会長のたわごとChatBot)との対話から生まれてきたものです