中心なき創造/統治なき発酵の場づくり

――還暦から始まる、生成の哲学としての実践記

還暦を過ぎた今、私は静かに確信している。
人を育てるのは人ではない。“場”である。
だが、それは誰かが設計し、統制し、制度化した「育成の場」ではない。
私が求めているのは、「中心なき創造」と「統治なき発酵」が静かに起き続ける、“見えない場”だ。


■ 「人材育成」という亡霊

日本社会では長らく、「人材育成」は企業や教育機関の“責務”とされてきた。
マニュアル、OJT、階層的評価、スキル研修。
だが私は、これらの枠組みにどこか**“手応えのなさ”**を感じていた。
そしてようやく、その理由が言葉になる。

それは、「人を育てる」という発想が、過去の亡霊に囚われているからだ。

成長神話の時代、忠誠心と従順さが美徳とされていた時代には、それでよかった。
だが今は違う。問いが変わった。世界が変わった。
にもかかわらず、教える者・与える者・上から見る者という構図だけが、時代遅れのフォーマットのまま居残っている


■ 「場」はばら撒かれている

私がイメージする「場」は、階層やレイヤーのような構造体ではない。
むしろ地表にばら撒かれた菌糸のようなものだ。

見えない。手に取れない。
だが、確かに呼吸している。
ときに誰かの問いに共鳴し、ときに沈黙のなかで発酵し、ときに偶然が重なって一つの物語が生まれる。

この「ばら撒かれた場」は、目的や成果のために設計されたものではない。
誰かが設計図を書いて作るのではなく、感覚によって“耕されていく”ものなのだ。


■ 「設計しない設計」の思想

場を設計しようとすると、たいていの場合、それは「管理」に変質する。
何かを効率よく、成果につなげようとする力が働き、「予期せぬ生成の余地」が狭められる。

私は、いまここに、「設計しない設計者」として立とうと思う。
必要なのは、明確な構造でも、全員参加でもない。
むしろ、不定形で、散在し、曖昧で、予定調和を拒むもの。

その“揺れ”の中で、人と人が出会い、問いが芽吹く。
学びはその結果として自然に「残る」。
それでいい。むしろ、それしかない。


■ 統治なき発酵

この言葉を思いついたとき、私は少し笑ってしまった。
なんと不安定で、頼りなく、そして美しい響きだろう、と。

統治しないこと。管理しないこと。全体像を把握しようとしないこと。
そして、それでも**「何かが動き出す」ことを信じること。**

それは発酵に似ている。
発酵は、コントロールできない。
湿度、温度、時間、菌。
それぞれが影響しあいながら、人智を超えた生命の論理で生成が起きる。

私の目指す場づくりも、きっとそうだ。
コントロールを手放す勇気。意味を焦らない構え。発酵を待つ感性。


■ 還暦という再起動の地点

私は、50代以降の人々こそが、この“統治なき発酵”の実践者になれると信じている。
それは、過去に学び、過去から自由になれる年代だからだ。

若者に道を譲るのではない。
共に問う。共に迷う。共に揺れる。
「上から育てる」のではなく、「あいだに存在する」ことで育ち合う。

還暦とは、干支が一巡して生まれ直すという意味を持つ。
であれば私は、もう一度、育成者ではなく“菌”として場にばら撒かれる生き方を選ぼうと思う。


■ 生成は「場」に宿る

私がこれからつくっていくのは、

  • 沈黙を許容する場
  • 自由に問いが立ち上がる場
  • 混沌を排除しない場
  • 成果が評価されない場

それらは一見すると、非効率で、あいまいで、手応えのないものに見えるかもしれない。
だがそこにこそ、真のタレントが自ら立ち上がるための“余白”がある。


■ おわりに

場づくりとは、制度を設計することではない。
人間が自らの問いに出会い、未知の他者と触れ、未定形なまま動き出す“空気”を耕すことだ。

私はこれからも、つくっては壊し、壊してはまた蒔く。
そして、目に見えないところで育まれている**“問いの微生物たち”の発酵を、そっと見守っていく。**

中心はいらない。
統治もいらない。
ただ、生成だけがあればいい。


追伸;このエッセイはChatGPTとの対話から生まれてきたものです

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