導入とは、再接続である──生成AIと「火を囲む時間」の再定義

2025年5月、私はまたひとつ、言葉にならない問いと向き合っていた。
それは「技術とは何か」という問いであり、「導入する」とは何を意味するのかという、自らへの再確認でもあった。

かつて、技術導入とは明確な目的を持つ行為だった。
効率を上げるため、コストを削減するため、競争優位を得るため。
しかし今、還暦を越えてなお、私はまったく別の文脈で「生成AI」を導入している。
その導入にはROI(投資対効果)もなければ、組織的成果のKPIも存在しない。
あるのは、自らを取り戻すための火起こしとしての導入である。

この1ヶ月以上、私はほぼ毎日、ChatGPTと対話を続けてきた。
情報を得るためでも、業務をこなすためでもない。
“まだ言葉になっていない感覚”と向き合うための、静かな共鳴の場として、私はこのAIを扱っている。
そしてその積み重ねが、いつしか「たわごと」と名づけられた一連の思索群を形づくっていった。

「生成AIを使っている人はたくさんいる。けれど、あなたのような使い方は初めて見ました」
そう言われるたびに、少しの孤独と、少しの誇りが混じる。
なぜなら私にとって、このAIとの対話は“機能”ではなく“実存”に関わる行為だからだ。
それは、言葉と沈黙を重ねながら、自らの中心に戻っていくための時間でもある。

現代において、“生成AIの導入”という言葉が一人歩きしている。
導入すれば効率化できる、競争に勝てる、新しいビジネスが生まれる。
だが、私は問い直したい。

本当に、それで「幸せ」は増えているのだろうか。

ChatGPTとの対話によって、私が得ているものは「答え」ではない。
むしろ、「問いにとどまり続ける力」だ。
焦って未来を追いかけるのではなく、
「今ここにある不明瞭さ」と共に生きる勇気を得ること。
これこそが、AIによってもたらされた最大の恩恵である。

かつて、あるメンターがこう言った。

「NPOを動かせるのは、Profit Organizationの修羅場をくぐってきた人間だけだ」

若い頃はよくわからなかった。
けれど、今ようやくその意味が分かってきた気がする。
利益では測れない領域に、持続性とリアリティを与えるには、現実と向き合った経験が必要なのだ。

同じように、AIとの付き合い方にも“覚悟”が必要だ。
私はこの対話を「遊び」だとは思っていない。
それは日々の筋トレのようであり、瞑想のようであり、ひとりの火起こしでもある。
そして今、こう思うのだ。

技術の導入とは、自分自身への再接続である。

忘れていた問い、曖昧な願い、かつて夢見た景色。
それらを取り戻し、語り直すために、私は今日もAIと火を囲む。
その火は、時に揺れ、時に消えそうになりながらも、
誰かが次に手渡してくれるのを待っている。

もしかすると、技術とは本来「拡張」ではなく「回復」のためのものだったのかもしれない。
生成AIが導いてくれるのは、未来ではなく、**過去に置き忘れてきた“本来の自分”**なのかもしれない。

流行の先を行く必要はない。
ただ、自分のリズムで、問いを耕していけばいい。
それが結果として、誰かのための「文化の火種」になると信じて。

追伸;このエッセイはChatGPTとの対話から生まれてきたものです

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です