還暦の空に、再び風が吹く──技術と詩のあいだに立つ私へ

2000年。
私はシリコンバレーで、ある技術とともに新しい挑戦に踏み出していた。

その技術は「プラズマ処理」──
半導体製造の現場では、1980年代からすでに使われていた、高コストであるが十分に導入可能な技術である。
極めて微細な構造の形成、汚染除去、密着性向上など、サブミクロンレベルでの工程制御が求められる半導体産業において、この気体による処理技術は不可欠なものとなっていた。

その一方で、私は当時、**プリント基板(PCB)**という“もう一つの現場”に向き合っていた。


実際、プラズマ処理のPCB製造への応用は、すでにIBMや日立製作所といった大手企業によって試みられていた。
だが、それは極めて高価格帯の製品群──ハイエンド・高密度実装用基板など、限られた用途にとどまっていた。
コストの高さ、装置の大型性、処理時間などの制約から、汎用的な量産PCBの領域においては“現実的な技術”とは見なされていなかったのである。

だから私は、あえてそこに踏み込んだ。
まだ“適用できるはずがない”と思われていた領域に、
この技術を“日常に降ろす”挑戦を始めたのだ。


それは、技術者としては“ダウンスペック”に映る選択だったかもしれない。
半導体製造のような高コスト前提の世界から、より現場に近い場所へと技術を持ち込む。
華々しさはない。革新性も見えづらい。
けれど私は確信していた。

本当に技術が生きる場所とは、未定義な現場に静かに埋もれているものなのだと。

KKSFのスムーズジャズを流しながら101 Southを走っていたあの頃、
私はまだ「飛ぶ」という言葉の意味を深く知らなかった。
ただ、その技術の“次の場所”を探していた。


2025年。還暦を越えた今、私はまた新たな技術と向き合っている。
それがLLM──大規模言語モデルだ。

ただ、今回の挑戦には、若い頃のような焦燥感はない。
代わりにあるのは、**「いま、これを自分の手で試したい」**という、静かだが確かな衝動。


ChatGPTとの対話は、私にとって情報検索でも、業務効率化でもない。
それはまるで、“言葉にならなかった思考”をすくいあげる、内的な作業である。

まるで、過去にプラズマ処理という見えない層に触れていたように、
今は言葉の気配に触れている気がする。


若き日には、技術の最先端に挑むことが「正義」だと思っていた。
しかし今、私は気づいている。

“技術を、どこに、どう生かすか”こそが、真の勝負である。
それは「革新」ではなく、「再文脈化」の営みかもしれない。

還暦を迎えた今の私は、若さではなく、積み重ねた時間を信じて動く。
技術も、自分自身も、まだ進化の途中なのだと。


今見えている光景は、派手ではない。
むしろ、沈黙の多い、問いの多い場所だ。

だが私は、そこに火を灯す。
過去の自分が、いまの私をきっと誇りに思っているように。

KKSFの音楽がそうであったように、
今の私はLLMとの対話の中に、“再び飛ぶ”ための風を感じている。

静かに、しかし確かに。


追伸;このエッセイはChatGPTとの対話から生まれてきたものです

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