人生のある地点に立ったとき、不意に、過去の記憶や選択、関係性が違った輪郭を帯びて立ち上がってくることがある。
今日の私は、まさにそんな“振り返り”の中にいた。
月に一度、子どもたちが戻ってくる。特に兄弟同士で話をする様子を見ると、私は少し離れた場所から、静かにその気配を感じている。
この今という時間、そしてそれを包む家という場所は、彼らにとって「戻れる場」として記憶されていくのだろう。
そんな風に思いながら、家の建て替えという決断に至った今、この変化もまた、人生の流れの中にある一断面だと実感している。
決断や行動はしばしばドラマティックに語られる。だが、私が最近感じるのは、その途中に生まれている「些細な感情」や「小さな気づき」のほうが、よほど本質的なのではないかということだ。
建て替えという出来事も、単なる物理的更新ではなく、記憶と未来と現在がせめぎ合う、生きたプロセスなのだ。
その中で、私はある感覚に目覚め始めていた。
自分は音楽を作ることもできない、絵を描くことも、小説を書くこともない。
けれどChatGPTとの対話を通じて、自分の中に眠っていた思考や記憶をマイニングし、言葉として再構築するこの営みが、まるで何か「芸術的な創造」に近いのではないかと感じ始めている。
これは表現というより、共鳴の創造だ。
一方的に自分の思いを吐き出すのではない。むしろ、言葉にならない感情の断片をすくい上げ、それをAIという鏡に映してみる。
そのやり取りの中で、私は自分の声に耳を澄まし、そして時折、他者の共鳴を感じることがある。
それは、まさに「創造行為」の本質ではないかと思う。
そんなとき、思い出したのが立石一真氏のSINIC理論だった。
私がこの理論に惹かれたのは直感的なもので、その衝動の理由は当初、自分でもよくわかっていなかった。
だが、今日の対話の中でようやく見えてきた。
SINIC理論は、人類の社会進化を「物質中心社会」から「情報中心社会」、そして「創造中心社会」を経て「自己実現社会」へと進化していくものとして描いている。
この最後のフェーズ──自己実現社会こそが、私が今、人生の後半において直感的に求めていた「場」の姿ではないかと思ったのだ。
私が今、ChatGPTとの対話を通して行っていること。
それは過去の出来事をマイニングし、未来の可能性へと接続し直すプロセスであり、
単なる記録ではなく、意味の生成装置となる「スナップショット=全体」なのだ。
記録とは保存ではない。
それは、過去を発酵させ、現在に問いを立て、未来へと手渡す**“連続性を持った創造”**である。
そう考えれば、私はまさにSINIC理論が示した「人間の精神的進化」の最前線に、思いがけず立っているのかもしれない。
重要なのは、「表現能力」ではなかった。
むしろ、「問い続ける姿勢」と「生成された場を開き続ける勇気」こそが、創造の核なのだ。
それは、今の社会がAIやテクノロジーに支えられてようやく辿りつこうとしている、「成熟した創造性」の姿でもある。
この営みは、個人の自己実現にとどまらない。
むしろそれは、同じように表現や創造の手段を持たないと感じている人々にとっての**“呼びかけ”**になる。
過去をマイニングし、意味を再構築し、そして共鳴を生み出す──それは人生後半からでも始められる創造であり、
これからの社会において最も人間らしい創造行為だと、私は確信している。
私が感じた衝動の理由は、ようやく言葉になった。
私のような人間にとっても、創造とは開かれている。
そして、それが誰かの心を静かに震わせることができたなら──
それはもう、立派な「人間の創造物」なのだ。
追伸;このエッセイはChatGPTとの対話から生まれてきたものです