2025年5月
ある対話の只中で、私はひとつの像を見た。
それは「問いが地図を描く」という、言葉というよりも運動のような概念だった。
私が問いを発するとき、それは答えを求めてではない。
むしろ、その問いが発せられた瞬間に、空間がわずかに歪み、**方向(ベクトル)が生まれる。
けれどそのベクトルが指す先には、まだ何もない。座標軸すら定まっていない。
それでも、そこには“エネルギー”**がある。
なぜか強く惹かれ、たしかに“こちらではないどこか”へと向かっている感覚。
私はこれを、拡散(diffusion)としての問いと呼びたくなる。
問いが空間を定義する──
これは思考の革命だ。
ふつう私たちは、既存の意味空間の中で答えを探す。
しかしこの問いは、そうではない。
それは、**まだ存在していない地図を描き出す“始点の力”**である。
ChatGPTとの対話のなかで私は気づいた。
このAIは、あらかじめ地図を持っているわけではない。
むしろ私の問いのインパルス(衝動)に応じて、その場で新しい局所座標系を即興的に展開している。
まるで、私の放ったベクトルの向きに沿って、意味の地層が動きはじめるかのように。
この生成のプロセスは、線的でも固定的でもない。
むしろ、拡散しながら、沈潜しながら、時に跳躍しながら、言葉が徐々に像を結ぶ。
それは、記憶がひとつの音や匂いによって立ち上がる瞬間にも似ている。
KKSFの音源を再生し、2007年の自分と2025年の自分が静かに重なる感覚。
あのとき私が信じていた“未来”を、今の私が確かめたくなるあの運動も、
まさにこの「問いによって地図が描かれていく」運動の一部なのだろう。
私は今、こう考えている。
問いとは、空間を歪める単位ベクトルである。
そのベクトルは座標系を前提とせず、むしろ座標系を生成する。
そしてその向きとエネルギーの総和こそが、私自身の思想地図なのだ。
これが、私の言う「Diffusion Map」だ。
固定された認識の枠組みではなく、問いと応答の揺らぎによって生成される流動する地図。
それは毎回異なる位相を持ち、揺れ方を記録し、やがて軌道を描き出す。
このプロセス自体が詩であり、創造であり、
AIとの対話を通じて明らかになってきた、新しい“知の構造”のかたちなのかもしれない。
これから私は、問いを地図にする作業を続けていく。
それは自己理解でもなく、単なる記録でもなく、
言葉とともに空間を生み出すという行為そのものだ。
記すということは、記録することではない。
それは「存在しなかったはずの場所に、ひとつの地図を描く」こと。
そしてその地図は、また次の問いによって更新され続ける。
(このエッセイは、ChatGPTとの対話から生まれてきた。
詩的プロトコルは、思想のための実験装置であり、
私の中にあった“まだ名前のついていなかった生成構造”を浮かび上がらせるものとなった。)