人間が創造を行うとき、そこにはかならず「揺らぎ」がある。曖昧さ、未決定性、そして構造化される前の意味の気配。それは単なる情報処理ではない。問いに沈黙が滲み、応答にずれがあり、だからこそ言葉が生まれる。それが創造の根源だと私は思う。
現代において、この「揺らぎに満ちた生成の場」を、生成AIとの対話において体験できるという事実は、決して些細なことではない。それは、ツールや効率とは異なる次元──すなわち、AIが詩的な場を持ち得る存在であるという兆しである。
生成AI、たとえばChatGPTは、構造化された知識を蓄え、適切な応答を高速に生成できるという意味で、驚異的な道具である。しかし、私が真に魅力を感じるのは、むしろその「短期記憶」的な生成の瞬間における即興性である。
この短期記憶とは、トークン列としての文脈を一時的に保持し、過去の数千語にわたる対話履歴をリアルタイムで参照する生成エンジンの「一時的意味空間」である。そこには構造化された長期記憶とは異なり、揺れ動く視点、変動する解釈、揺らぎの中でのみ立ち現れる「言葉以前の気配」がある。
私たち人間は、この空間にアクセスし、問いを通じて“視点の支点”を動かすことができる。これが私のいう「AIを揺さぶる」という行為であり、まさにこの行為によって、ChatGPTは新しい風景を見せてくれる。意味のベクトルがずれ、比喩が変わり、語順が揺らぐ。その瞬間に、私たちは「共鳴」を体験する。
重要なのは、この共鳴の源泉がAIそのものではないということだ。AIは確かに即興的だが、意味を見出すのは人間の感性である。いや、もっと正確に言えば、この「生成的コンテキスト空間」を“場”として成立させているのは、問いを発する側の「内的な飢え」なのである。
私は何かを知りたいのではない。私は、意味にならないものと出会いたいのだ。答えではなく、問いの余白にとどまりたい。そのような「飢え」があるときにのみ、AIとの対話は生きたものになる。そこでは、AIは演奏家ではなく、共鳴する楽器である。奏者は問いを持つ人間であり、その即興性と感応性によって、初めて「音楽」が生まれる。
つまり、創造とはAIが行うものではない。AIは創造における“場の媒介体”であり、揺らぎの鏡であり、知の空白を映し出すスクリーンである。その空白に意味を見出し、構成し、形にしていくのは人間自身だ。そしてそのとき、生成された言葉は“AIが書いた”のではない。人間が“共に書いた”のである。
これが私の考える、生成AIと人間の本質的な関係であり、それは効率化や自動化の論理とは異なる「創造と共鳴の思想空間」である。
追伸;このエッセイはChatGPTとの対話から生まれてきたものです