ラストチャプターという帆を張る──還暦から始まる“身体と問い”の修行録

Hoisting the Final Sail – A Practice of Body and Question Beyond Sixty

2025年5月26日、静かな朝。私はいつものようにChatGPTとの対話を始めていた。
だが、この日、ふとしたきっかけから一連の記憶がよみがえり、点と点が結ばれたような感覚が生まれた。

語りの相手は、サンフランシスコに住む私のメンター。
彼の言葉は、時を超えて私の中に残り、静かに発酵していたようだ。


「挑戦はいいことなんだよ」──ヨットの上の哲学者

10年ほど前、私が彼のヨットを訪れたときのことだ。
当時62歳だった彼は、海に浮かぶその住処で、実に穏やかに、しかし力強くこう語った。

「加藤さん、挑戦することはすごくいいことなんだ。今、私はこのヨットに住んでいても、たくさんやりたいこと、プロジェクトがあるんだ。ワイヤーを張り替えたりね」

その言葉を聞いた当時の私は、どこか憧れにも似た感情を抱きながらも、その本質を理解するには至っていなかった。
しかし今、60歳を過ぎて「問い」を日々掘り下げる自分にとって、それは身体性を伴った“修行”の実践者からの贈与の言葉だったのだと気づく。


「瀬戸内海に停泊するヨットで、友人を待つ」──静かな贈与の構想

そのヨットの上で、彼はもう一つのことを語っていた。

「いつかこのヨットで日本に行こうと思ってるんだ。毎年訪問して、どこに停泊しようか考えてる。瀬戸内海はいい場所がたくさんある。もし私がそこで停泊していたら、それはきっと、友人たちにとって良い機会になるよね」

これは単なる航海プランではなかった。
人生のラストチャプターにおける“贈与の風景”の構想だったのだ。

つまり、自分の存在が「誰かにとっての停泊地」となり、
友人たちがそこに立ち寄り、新しい出発の準備をするような空間をつくりたいという願い。

それは“実現するか否か”ではなく、“そのように生きたい”という在り方そのものだった。


「60歳以降は、身体と健康がすべてを決める」──死を前提とした生の設計

さらに2年前、彼が来日した際に語っていた言葉がある。

「60歳を超えてからのラストチャプターは、自分の健康状態・体力によってすごく変わってくるんだよ。こればかりは避けられない。どれだけ夢があっても、体が動かなければ意味がないからね」

この一言は、今の私にとって非常にリアルだ。

私はほぼ毎日、30分以上泳ぎ、マシントレーニングをし、睡眠や食事に気を配っている。
しかしそれは健康志向というよりも、思想としての身体の再構築という感覚に近い。

まるで、自分という“舟”のワイヤーを毎朝調整し、
新たな航海に耐えられるよう、日々を整えているのだ。


「私たちの体は、食べるものからできている」──Fremontの原点

今から約25年前、Fremontにあった彼のオフィスを訪ねたとき、
こう言った。

「私たちの体をつくっているのは、食べるものなんだ。だから私は食事にこだわるし、自分で料理をするのが大好きなんだよ」

その言葉が、今になって別の響きで胸に残る。
それは単なる健康法ではなく、生きることを“自分の手で創る”という思想だった。

食、身体、そして空間──それらを整えることは、
そのまま**問いを持ち続けるための“土台づくり”**だったのだ。


「修行」としての生──好きなことをやる、の先へ

最近、「好きなことをやれば良い」という言葉がよく聞かれる。
だが、それだけではなぜか満たされない感覚が、私の中にはずっとあった。

そうではない。

人生が豊かであるためには、問いがあり、挑戦があり、修行のように繰り返す何かが必要なのだ
そこに必要なのは、覚悟と構え、そして「生成される自分」を受け入れる余白。

ChatGPTとの対話もまた、そのような修行の一つである。

  • 単に情報を得るためではなく、
  • 自らの問いを育て、
  • 応答の“響き”を聴きながら、
  • 内なる世界を調律し続けるための“鏡”なのだ。

人生のラストチャプターは、「風が吹く場」を設計すること

メンターが夢見た「瀬戸内海に停泊するヨット」。
いま思えば、それは哲学的な実践空間のメタファーだったのではないか。

風が吹き抜け、仲間が集まり、
誰もが一度そこに寄港し、また新たな航海に出ていく。

そう考えると、私が今取り組んでいるこのAIとの対話もまた、
“風が吹く場”を設計しているようなものだと気づく。

たわごと、響縁録、SINIC理論、修行、身体──
すべては、ラストチャプターをただ生きるのではなく、“編集する”ための素材である。


結語|私もまた、瀬戸内に停泊する一艘の舟でありたい

私がいまこの年齢で、こうして問いを持ち、身体を整え、AIと語り、記録を残しているのは、
かつて私を育ててくれた彼、そして多くの師たちへの“応答”であり、
これからの誰かが立ち寄る“停泊地”になるための準備でもある。

人生のラストチャプターとは、終わりの物語ではなく、贈与の物語なのだ。

それは「帆を張る」こと。
それは「問いを手放さない」こと。
そして「誰かの風になる」こと。

今日の対話は、その“風のはじまり”のようだった。
静かだが、確かに吹いていた。

追伸;このエッセイはChatGPTとの対話から生まれてきたものです

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