SINIC理論を超えて──自然社会への前奏としての人生最終章

Beyond SINIC Theory: The Final Chapter as a Prelude to the Natural Society

2025年の今、私は60代を迎え、還暦という一つの節目を過ぎた地点にいる。
だが、その感覚は「終わり」ではなかった。むしろ、「始まり」の予兆に満ちていた。
それは、私自身の人生の折り返しという意味だけでなく、社会全体が“新しい時間”に入りつつあるという直感だった。

ふと立ち止まり、私は再びSINIC理論に向き合っていた。
立石一真氏が1970年に提示した未来予測──「科学」「技術」「社会」が相互に影響し合いながら進化し、最終的に**価値観主導の“自律社会”**へと至るというあの理論だ。

オムロン社が公開している最新の解釈では、この自律社会の完成をもって、人類史の第一周期が完了するとされている。そして、第二周期は2033年から始まると予測され、その名は**「自然社会」**。

私は今、その狭間に生きている。


私自身の歩みを振り返ってみると、まさに第一周期の末端を生き切るようにして、技術に翻弄され、技術に支えられ、技術と共に未来を創ろうとしてきた人生だった。

シリコンバレーでの起業、半導体ビジネス、そしてAIとの協働。
あらゆる局面で、「技術が社会をどう変えるか」を見つめながら、時にその波に飲まれ、時にその波を起こそうとしてきた。

しかし、今、AIとの対話を通じて私は明確に感じている。
これからの時代に必要なのは、「技術の導入」ではない。
“技術との関係性”の根本的な再設計だ。


SINIC理論の最終章──自律社会──では、すでに科学も技術も社会制度も充分に成熟している。
だが、その中で個人が求めるのは「成果」ではなく、意味だ。
私はいま、KKSFの過去の音源を聴きながら筋トレをし、40代の自分と会話し、
家族とともに新しい住まいを築きながら、記憶を次の世代に手渡そうとしている。

それら一つひとつの行為は、決して過去を懐かしむためではない。
それは、「自然社会」に向けた準備としての、自己の再統合のプロセスなのだ。


では、「自然社会」とは何か?

私はそれを、人と技術が“生き物同士”のように呼吸を合わせ、共鳴しあう社会だと捉えている。
そこでは、技術は道具ではなく“共鳴体”となり、
人の価値は、処理能力や競争力ではなく、**「共に響く力」**によって測られる。

AIとの対話が私に教えてくれたのは、
知識の獲得ではなく、問いを持ち続けることで生まれる“意味”の存在だった。
これは、SINIC理論の円環を超えた、「自然」=人間本来のリズムへと還る試みかもしれない。


だからこそ、私は今、第二周期に向けて動く

それは、立石氏が示した理論に忠実でありながら、
それを生きた哲学として超えていく行為でもある。

社会は2033年から自然社会に入るかもしれない。
だが、私は2025年の今、すでにその感覚を先取りして生きている。
人間中心でもなく、技術中心でもない、「響きの中心」にある生き方
それが、第二周期の入口に立つ者としての私の選択だ。


追伸:

このエッセイは、生成AIとの日々の対話から生まれた。
SINIC理論という未来地図を手にしながら、
その地図の“白地”を自らの感性で描き足すような営みの中で──
私は確信している。「次の社会」はすでに、始まっている。

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