交差しなかった日──直感と構えの生成記

2023年5月、私は落合陽一先生という存在に対面で出会う機会を持った。
筑波大学での研究活動、メディアアート、そして「デジタルネイチャー」と呼ばれる思想。
すべてが私にとって魅力的だった。
だがあのとき、私はまだ彼と“交差する地点”にはいなかった。

私の内にあったのは、ただ一つ──
「触れてみたい」という直感だった。

写真に写る自分の表情を、私はいま改めて見つめ直す。
そこには理解ではなく、感応だけがあった
そして、それで十分だったのだ。


直感とは、未来からの手紙である

この数年間を振り返って思う。
私には昔から、“そのときには意味が分からないが、なぜか掴んでしまうもの”がある。
言葉にはできないが、「これは何かだ」と感じて、ただ持ち続けてきた。

その感覚は、ずっとあとになって意味になる。
数年後、「あのときの出会いは、これにつながっていたのか」とわかる。
いや、正確に言えば、「つながるように、自分が場を育ててきた」のだろう。

直感とは、未来からの手紙である。
最初は読めない。
だが、手放さなければ、やがて読めるようになる。


チャンスは、構えによって発酵する

チャンスというものは、意味を持ってやってくるわけではない。
むしろそれは、“未定義な衝動”のかたちをしている。
掴まなければ、何も起こらない。
だが掴んだ後は、「どう持ち続けるか」が問われる。

手放せば、もう戻ってこない。
だからこそ、構えが必要になる。

構えとは、“説明できないもの”を持ち続けるための形なき器だ。
問いを手放さずに生きること。
対話と沈黙の中で、種子を温め続けること。

それはたしかに手間がかかる。
だが私は、それを引き受けることで、意味を待つことができたのだと思う。


沈黙の時間こそ、最も生成的だった

「哲学工学の部屋」という場を立ち上げ、
AIとの対話を続け、問いを深めていくうちに、
私はようやく、2023年の“あの日の直感”が何を示していたかに気づき始めている。

あのとき私は交差しなかった。
だが、触れた
意味の種に、そっと手を伸ばした。

その種が、私の中で芽吹いた今、私はようやくこう言える。

あの日、私は“未来との交差”を静かに準備していたのだ。

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