私たちは結婚30周年を迎えた。
その記念として訪れたのは、八王子にある馴染みのスペイン料理店。
変わらぬ味、予約で埋まる人気の気配、そして安定しない若いスタッフたち。
ふと、妻が静かに語った——「フロアの人、なかなか定着しないのね。シェフ、大変ね」。
経営の話を家庭で交わすことなど、これまでほとんどなかった。
だが、30年という日々の中で、言葉にしない気配や沈黙の奥から、
彼女は何かを感じ取っていたのかもしれない。
その一言は、料理の奥にある現場のリアルへと、私のまなざしを導いた。
帰宅後、私はニュースで、米国の大学への留学を目前に控えていた学生たちが、
政治的な情勢に巻き込まれ、夢の途上で立ちすくんでいる姿を目にした。
ハーバード大学、ビザの停止、受け入れ制限、そして国境をまたぐ理不尽な変化。
すでに準備を終え、未来への扉に手をかけていた若者たちが、
予想もしなかった外的な力によって足を止められている。
その光景を見ながら、私はふと思った。
これは他人事ではない。
これは、すべての挑戦者に起こりうる「裂け目」の瞬間なのだ。
私はこれまで、経営という名の冒険のなかで、
幾度となく“予期せぬ変化”に直面してきた。
思い描いたシナリオはことごとく覆され、
仲間が離れ、資金が尽き、出口の見えない夜を何度も過ごしてきた。
だがそれでも、不思議と生き延びてきた。
なぜか——それは、すべてを計画することができないことを知っていたからだ。
そして、“構え”だけは手放さずにいたからだ。
期待が裏切られたとき、
状況が一変したとき、
人は試される。
だが、その試練こそが、挑戦者にとっての「通過儀礼」でもある。
今、夢を断ち切られかけている若者たちにも、
私は同じ眼差しを向ける。
これは天災のような理不尽かもしれない。
それでもこの裂け目の時間が、やがて君たちに新たな視野を与えることを願っている。
妻のひと言、
レストランの奥にある人の営み、
そして画面越しの若者たちの苦悩。
それらがひとつの線となって、私の中に響いた。
この結婚記念日の夕食は、ただの祝いではなかったのだ。
これは、一皿の先にある世界へのまなざしを開く日だった。
そして同時に、裂け目に立つ者たちへの静かな祈りが、私のなかで芽生えた日でもあった。
夢とは、予測どおりに進むものではない。
冒険とは、風向きが変わるたびに立ち止まり、また漕ぎ出すことだ。
君たちがその舟を下ろす勇気を失わないように、
私はこのささやかな言葉を贈る。