共感グローバリズム宣言──構えがつなぐ、令和の地球社会

「この場に、問いは生まれますか?」
今朝、私はその問いを胸に、いくつかのイベント案内に目を通していた。
どれも整っていて、滑らかに仕立てられている。だが、なぜだろう、心が揺れない
その理由は明白だった。予定調和のなかに、問いが立ち上がる余白が存在していなかったのだ

私はこの問いを自分自身に投げ返してみた。
では、自分が登壇するイベントではどうだろうか。
形式だけをなぞれば、どのイベントとも変わりない。
しかし、私が何を語るかではなく、どんな構えでそこに立つかによって、場の意味は変わるのではないか。
そう思い直したとき、一つの言葉が浮かんできた。

共感グローバリズム──それは、場所や言語を超えて「構え」が響き合う世界のことだ。


西海岸の車中で流れたYanniの旋律。
新婚旅行で手渡されたCDは、単なる贈り物ではなく、文化の断片だった。
その断片は、今日まで私の中で鳴り続けている。

台湾のVanessaが、起業の夢を語るメッセージを送ってくれた。
ベルリンのMoeが、沖縄で生きたいとつぶやいた旅立ち前夜。
South England出身のCarlが語った“English English”と“性能という美学”。
どれも一過性の会話ではない。構えと構えが交差し、小さく震えた瞬間だった。

私は今、グローバルとは「英語が話せること」でも「世界で働くこと」でもないと確信している。
それはむしろ──

他者の構えに共振し、変容を許容する余白を持つこと。

だからこそ、地方から始められる。
中心ではなく、“揺れる”ことを許される周縁にこそ、新しい構造が生まれる。


能登の復興の遅れに見る、「元に戻す」という構え。
それは制度の網の目を強化するが、変化を受け入れることはない。
再エネやデジタルも同じだ。技術ではなく、構えが社会を変える鍵なのだ

山梨、能登、フィンランド。
どれも「小さき構えの戦略」が実装可能な場所だった。
それは「自分がやる」から始まる、小さな日常の中の構えだ。


私は今、Mt.Fujiイノベーションサロンに登壇することになっている。
テーマは「グローバル人材に必要なスキル」だ。
けれど私は、そこで「スキル」について語るつもりはない。

語るのは、構えであり、共鳴であり、問いが生まれる場のつくり方だ。
そしてその最後に、私はこの提言を添えようと思っている。


🔖 共感グローバリズム宣言

私たちは、国境や制度、肩書きやスキルを超えて、
人の構えが共鳴することで、世界とつながる時代に生きている。

グローバルとは、どこにいるかではなく、
どのように他者に出会い、共に揺れるかの構えである。

Zoomの向こう、喫茶店の対話、車中に流れた旋律──
そこに未来の地球社会の予兆がある。

私たちはここに、
共感を触媒とした越境の時代の到来を受け入れ、
構えを開き、問いを持ち、静かな共鳴を起点にして、
次の場をつくっていくことを提言する。


この宣言が、誰かの中で静かに響き、
未来のどこかで芽吹いてくれたなら、
今日という日は、確かに“次の地球社会”の一歩になったのだと思えるだろう。

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