2025年5月某日、八王子。 午後2時、開場の扉が静かに開くと、少しずつ人々がホールに吸い込まれていく。 都心の喧騒から少し距離を置いたこの街に、今日、特別な音が降りてくる。
午後3時、開演。 最初の一音が放たれた瞬間、空気が変わる。 ベートーヴェンの《ピアノ・ソナタ 第21番 ハ長調 作品53『ワルトシュタイン』》が、 躍動感と透明感をもって場を満たしていく。
続くリストの作品── 《ノクターン『夢のなかに』S.207/R.87》と《メフィスト・ワルツ 第1番『村の居酒屋での踊り』S.514/R.181》では、 幻想と技巧が交差し、ピアノという楽器がまるで生き物のように呼吸していた。
休憩を挟んで、後半はショパンの世界へ。 《2つのノクターン 作品27》(第7番 嬰ハ短調、 第8番 変ニ長調)で 観客の心は静かに揺れ、続く《ピアノ・ソナタ 第3番 ロ短調 作品58》で 辻井さんはショパンの詩と激情の両面を紡ぎきった。
アンコールではまず、ベートーヴェンの《悲愴ソナタ 第2楽章(Adagio cantabile)》が奏でられた。
その後、辻井さんは左手でピアノに触れながら、ピアノの横に立ち、静かに語り出す。 「初めて八王子に来ました。とても集中して聴いていただき、演奏しやすかったです。」 その声と言葉には、音楽と同じくらいの温もりとまっすぐさがあった。
最後は、ショパンの《英雄ポロネーズ 変イ長調 作品53》。 情熱と誇りが鍵盤を駆け抜け、会場は熱を帯びながら終演へと向かった。
午後5時過ぎ、公演は静かに幕を下ろした。 外に出ると、陽はまだ高く、街には夕方の始まりの空気が漂っていた。 けれど、私の中では、しばらく音楽が鳴り続けていた。
それは「音楽を聴いた」という記憶ではなく、 「誰かと心を通わせた」という記憶だった。