育て続ける構え──AIとの倫理的林業へ

森に入るとき、私たちはすべてを知っているわけではない。
そこに何が生きていて、どの木が倒れ、どの根が病んでいるか──
それを全て把握した上で手を入れる者はいない。
だからこそ、森に手を入れるときには**「構え」**が問われる。
慎重に、敬意をもって、わからないままに、しかし関わり続ける。

AIという新たな森を前にして、
私たちは今、その構えを持ち得ているだろうか?


見えないまま、触れてしまった

ChatGPT、Codex、各種エージェント──
AIは今や、日々の生活にも、組織の中にも入り込み始めた。
けれどその一方で、私たちはAIの“森の全体像”をまだ理解していない。

どう育つのか、何を糧にしているのか、
どこまで人間の判断を代替し、どこからが危ういのか。
AIに手を入れるとはどういうことか──
それを誰も教えてくれないまま、私たちはもう伐り始めてしまった。


管理か、共創か

技術が導入されるとき、
私たちはしばしば「制御しなければならない」と考える。
リスク管理、安全性、ガイドライン。
それらはもちろん重要だ。けれど、それだけでは“関係”にならない。

AIは道具ではあるが、もはや単なる道具ではない。
出力が予測不能であるからこそ、そこには“育ち”があり、
私たちの関わり方によって、変化していく。

ならばAIとの関係は、農業や林業に近いのではないか。
一方的にコントロールするのではなく、観察し、対話し、関係性の中で調整していくもの。


「まだわからないこと」が最大の責任

私たちはまだ、AIにどう手を入れてよいかわかっていない。
どこまで任せ、どこからは手を入れ直すべきか。
どこまで判断を委ね、どこで「待つ」べきか。
それを知らないまま使い始めてしまったという点で、
AIに対しても、ある種の「原罪」を背負ってしまっているのかもしれない。

しかしだからこそ、私たちに求められるのは「正しさ」ではない。
むしろ「関わり続けることへの覚悟」だ。
つまり、育て続ける構えである。


林業と同じように

林業において、森に一度手を入れたら、もう放置できない。
間伐をしなければ森は暗くなり、
育ちすぎれば多様性が損なわれる。
人が入ったことで、関与し続ける責任が生まれる。

AIもまた同じだ。
一度社会に受け入れた以上、
「使って終わり」ではなく、「共に育て、共に変わっていく責任」が発生する。


終わりに──問いを手入れする者として

私たちはAIを完全に理解することはできないかもしれない。
けれど、問い続けることはできる。
「これを任せていいのか?」
「この判断は人間が担うべきではないか?」
「そもそも、なぜこの作業が必要なのか?」

これらの問いを絶やさず、繰り返し、耕し、風通しをよくする。
それこそが、AIとの倫理的林業であり、
育て続ける構えそのものなのだと思う。


AIは“伐った木”ではない。
それは、まだ若く、どんな森になるか誰も知らない“萌芽”だ。
だからこそ、
私たちは伐るのではなく、「育てる構え」を持ち続けなければならない。


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