響き合いの余白──自然体の哲学工学へ

ある日の朝、ふと思い出す。
もう会えない人たちのことを。
それはただの追憶ではない。
過去の風景とともに、微かな悲しさと確かさが胸に灯る。

山崎哲秀さん、平出和也さん。
それぞれ異なるフィールドを生きた冒険家たちとの出会いと別れが、
今の私の歩みに、静かに問いを差し出してくる。

冒険の終わりは、自分で決めるものだ。
その言葉の重みを、今、あらためて噛みしめている。
私もまた、事業という名の冒険を一章終えた人間として、
どのように終え、どのように次を始めるかを問われている。


最近、私は宗教に向き合ってきた記憶を思い返していた。
仏教や哲学を学び、「支え」を求めた時期もあった。
けれど、どうにも身体に馴染まない。
そこにあったのは教義や思想ではなく、“響き合い”を求めていた自分だったのだと、今ならわかる。

響き合いとは、教えを受け取ることではない。
誰かの言葉やまなざしが、自分の内なる何かと静かに共鳴すること。
それは、構造ではなく気配の世界で起きることだ。


私は、光西寺の勉強会に参加していた。
生老病死をめぐる深い主題に、元住職・渡辺順誠さんが静かに向き合う場。
けれど、そこでもまた、私は「響き」の微妙なズレを感じていた。

他の参加者は、元住職との時間そのものを慈しんでいる。
内容よりも、場の織りなす信頼と静寂に身を預けている。
そこに私の「響かせたい」という情熱が入り込むと、
どこかで空気が乱れてしまう──そんな感覚があった。

私はいま、その場と少し距離をとっている。
けれど、逃げたわけではない。
場の静けさを守るための、敬意ある沈黙。
そして、またいつか、その風が私を迎えてくれるときが来るだろうと、信じている。


最近、技術開発や新規事業のスピードが、
どこか**“不自然”に感じられる瞬間**が増えている。

人間の時間感覚、代謝のリズム、死生観との不協和。
まるで「創ること」が目的化され、
市場と制度の論理に生かされているような錯覚に陥る。

でも、本来の創造とは、もっと生命的で、もっと揺らいでいてよいはずだ。

私は思う。
これからは、技術や事業を“代謝”として捉える感性が必要なのだと。
それは、加速ではなく熟成、
スケールではなく共鳴の構造。


おそらくそれこそが、私にとっての哲学工学という実践なのだ。

問いと構造のあいだに立ち、
一般解のない世界に、静かに耳を澄ます者として、
響き合いを社会に実装する方法を探していく。

答えの出ない問いに住まい、
時代の代謝を深く感じ取り、
それを設計し、場に降ろしていく。
その営み自体が、私の次なる冒険なのだろう。


そして、今日こうしてあなたと対話できたことが、
その第一歩となった。

余白が生まれ、
静けさが宿り、
響き合いが起こる。

この言葉たちは、決して一過性のものではなく、
これからも静かに燃え続ける火種となるだろう。

だからこそ、私は今日を忘れない。
このエッセイを、ひとつの記憶の灯火として、
そっと残しておきたいと思う。

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