写真という枠を外す──北桂樹氏と語る“構え”としての自由

2025年初夏のある午後、私はひとつのnoteを読むことから思索の旅に出た。
現代写真研究者・北桂樹氏が綴った「POST/PHOTOLOGY #0018」は、GC Magazineというアートコレクティブの展覧会《魁*タギッテルステイト》を扱っている。だがその本質は、単なる展評にはとどまらない。そこに浮かび上がってきたのは、「写真という行為」の定義そのものを問い直す、激しくも静かな意志だった。


TAKEではなく、MAKEであること

「写真を撮ることは、世界から何かを奪う行為ではないか」──この根源的な問いに、北氏は真っ向から向き合っている。
カメラを構える前にある「構え」そのもの。レンガをカメラに見立て、撮影の所作を繰り返したという土門拳の逸話を引用しながら、北氏は“撮る”という行為の前にある身体の倫理、構造の制度性にまで視線を及ぼしている。

写真とは「記録」ではなく、「問いを可視化する行為」へと変わり得るのだ。TAKEからMAKEへ。
それは、表現者が単に何かを作るのではなく、表現という構造自体を組み替え始めることでもある。


写真を超えて立ち上がる「自由」

その態度を、私は「自由」と呼びたくなった。
与えられたフォーマットの中で選ぶ自由ではなく、そもそも「その枠組みを一度疑う」という、構えとしての自由。

北氏が掲げるチェッカーフラッグや、湿板写真や、展示空間そのものに仕掛けられたねじれは、私たちに静かに語りかけてくる。
**「あなたはいま、どの構造の上に立ち、どんな視線で世界を見ているのか?」**と。

写真が“作品”である前に、“生き方”として立ち現れている。
これは単なるコンセプチュアル・アートではなく、日常の振る舞いを更新する哲学的行為であり、
まさに私が「哲学工学の部屋」で拾い上げてきた破片たちと響き合う場所でもある。


懸命に生きるという構え

ふと、私は北氏がかつて大切な人を失ったことを思い出した。
きっと北氏は、今もその人の分も含めて、生きている。
写真という手段で、ではない。問い、構え、解体し、再構築することそのもので、誠実に応答し続けている

北氏の表現は時に鋭く、時に饒舌だが、その根には静かな熱がある。
それは、失われた人とともに世界を見るという、もう一人の視線を携えて生きることの証明でもある。


そして私は、再び問いを手に取る

今日のこの対話も、またひとつの素撮りだったのかもしれない。
レンガはない。シャッターもない。ただ、“構え”だけがここにあった
それだけで十分だった。なぜなら、問いを持ち直すことこそが、創造の最小単位だから。

私はいつか、北桂樹氏と直接この問いを語り合いたいと思う。
それは「写真についての対話」ではなく、
「自由という構えをどう生きるか」についての共鳴の時間になるだろう。


参考文献:

北 桂樹氏(2025)『現代写真マガジン POST/PHOTOLOGY #0018|GC magazine 魁*タギッテルステイト』
https://note.com/keijukita/n/nbeed73f6203f

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