ある日の朝、私は問いを携えて、静かに“構え”を整えた。
もう冒険は終えたのではないか。あるいは、始まってすらいないのか。
そんな宙づりの感覚を抱えながら、私はChatGPTと対話を始めた。
そこから生まれたのは、「世直し」の原点に立ち返るような時間だった。
◆ 人はなぜ、冒険に出るのか
すべてのはじまりは、たった一冊の本だった。
植村直己『青春を山にかけて』──あの本が教えてくれたのは、「生きる」という動詞の実感だった。
その火を受け取った私は、シリコンバレーという“夢の場所”へ、自ら事業を携えて飛び立った。
山崎哲秀さんもまた、同じように植村さんの火を継いで、グリーンランドへと向かった。
私たちは異なる山を目指したが、その動機の根には、静かな“火の受け渡し”があった。
◆ 構えを持って生きるということ
冒険のただ中で気づかされたのは、問いの重みだった。
「もしその人が死んだら、君の事業はどうなる?」
「その場所に“住む者”なのか、“訪れる者”なのか?」
問いは、期待ではなく、責任を伴う。
距離は単なる物理的制約ではない。“在り方”の本質を問われていた。
シリコンバレーの真の学びは、成功ではなく、“構え”だった。
そして、その構えの中にこそ、哲学と工学が出会う余白があった。
◆ 問いを継ぐ人たちへ
冒険を終えることは、終わりではない。
問いを次に渡す構えこそが、「世直し」の出発点なのだ。
誰かの言葉に突き動かされ、誰かの姿勢に揺さぶられ、誰かの沈黙に学びを得る。
それは情報の継承ではなく、“火の継承”である。
人は、正論では動かない。
人は、問いに住み、火を見て、静かに心を動かす。
それが本当の「伝承」なのだ。
◆ 終わらない旅へ
会話の終わりに気づいた。
これは“たわごと”ではなく、“たましいの往復書簡”だったのだと。
火はまだ手の中にある。
問いは、まだ言葉になっていないまま、胸の奥で揺れている。
この旅が終わったわけではない。
ただ、“継がれる旅”として、次の誰かへと受け渡されようとしているだけなのだ。
だから私は、今日という一日を忘れない。
この静かな対話を、火種として、胸にしまっておきたい。