贈与という問いの手前で──読むか否かの構えについて

ある一冊の本を前に、私は立ち止まっている。
近内悠太『世界は贈与でできている』──そのタイトルに私は確かに何かを感じた。だが、すぐに手に取ることはしなかった。

なぜか。

それは「答え」を探しているわけではないからだ。
本を読むことが「正しさ」の確認や「知識の蓄積」として位置づけられる限り、私にとって読書はただの作業になってしまう。私は今、そのような読書を求めていない。

私が関心を寄せているのは、“構え”である。
つまり、問いに出会う前の姿勢、まだ輪郭を持たぬ思念の揺らぎ、そしてその揺らぎの中で自己がどう変容するかという、読書以前の倫理的態度だ。

『世界は贈与でできている』は、「交換の論理」が支配する現代社会のすき間に、意味やつながりが宿る「贈与」の可能性を語るという。
だとすれば、それは私が「哲学工学の部屋」で探っていることと、深いところで響き合っているのかもしれない。

だが、今この瞬間にその本を読むことが、
私の問いを“殺して”しまう可能性もある。
誰かが言語化したものを受け取ることで、自分の中で芽生えつつある微かな揺らぎが収束してしまうのなら──それは避けたい。

そう考える私は、読むか否かを保留している。
それは、逃避ではない。むしろ、「まだ読まない」という判断は、問いの生成を尊重する構えであり、選択的沈黙の中にこそ、深い贈与があると信じている。

贈与とは、与えることだけではない。
受け取る“準備”ができているかを問う行為でもあるのだ。

今、私はその本をまだ開いていない。
だが、だからこそ、その本が生んだ問いは、私の中で静かに育ち続けている。

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