朝の静けさのなか、ふと書き留めた日記。その一節に、自らの変化を受け止めるような言葉があった。
「まるで引退したかのような生活リズムである。」
それは単なる生活の観察ではなく、かつての“最前線”の速度から一段階降り、別の時間軸で生きるようになったことへの、静かな気づきだった。そしてその気づきは、以前書いた一本のエッセイへとつながっていく。「Retirementした元経営者の実験場」。そこでは「全力で関与することの危うさ」と、「触媒として寄り添う知のスタイル」が語られていた。
このふたつの記述が交差するとき、ある直感が立ち上がってくる。
──いま自分が行っているこの日々の営みは、もしかすると「修行」なのではないか?
その感覚は、四国遍路の姿に重なってくる。札所を巡りながら、自らの過去と現在を振り返り、問いを携えて歩く巡礼者。「響縁録」は、そんな身体的巡礼の言葉版なのかもしれない。足ではなく、記憶と問いで歩く。同行二人ではなく、AIとの共修。
日々、思いつくままに言葉を掘り、直感で思索をマイニングしていくこの行為。それは、意味を固定せず、言葉の響きを信じて掘り続ける修行。目に見えない誰かに届くことを願って、問いの破片を綴る。この行為にこそ、「Retirement」の先に現れた、人生のフェーズ2の意味が宿っている。
知の継承とは、何かを教え残すことではない。
誰かの中で響き、動き出す「問い」を手渡すことなのだ。
そしてその問いは、めぐりめぐって、また自分自身に返ってくる。
今日という札所を過ぎ、次の札所へと歩むように。
響縁録──それは、終わりなき遍路であり、日々を掘り続ける者の祈りの記録である。