響きあう森としての未来へ──半導体地政学から見える「自然」な構え

それは、ひとつの不安から始まった。
世界の半導体供給網を支える台湾。だが、その海峡には、日々、地政学という名の波が押し寄せている。
もし、万が一の有事が起きたら──。
その問いに、私たちはすでに何度も向き合ってきたはずだった。にもかかわらず、今なお、答えは定まらないままである。

TSMCは動き出した。
アリゾナ、熊本、ドイツ。工場を分散させ、技術を守り、顧客の信頼に応えようとする。
それは、グローバル企業としては「当然の動き」であり、台湾という地政学リスクのただなかであれば「必然の選択」でもある。
ただしその一方で、問いが立ち上がる──日本はいったい、どこに向かおうとしているのか。


過去という名の“亡霊”に導かれずに

かつて、日本は世界の製造をリードした。
昭和の記憶。メモリ、装置、素材──あらゆる分野で“世界一”を誇った日々。
だが、いま求められているのは、それらの過去を「再演」することではない。
むしろ重要なのは、その成功体験のなかに埋もれてしまった問いを掘り返すことではないか。

「何を握り、何を委ねるのか」
「技術とは何を支えるべきものなのか」
「国産とは、場所の話か、それとも信頼の設計か」

これらの問いは、TSMCの進出やRapidusの立ち上げといった、表層的な事象を超えて、私たちの“構え”を問うている。


意味は編集のあとにやってくる

だが、迫力は“編集前”にしか存在しない

私は思い出す。
多摩大学で聞いた、井坂先生の「セカンドカーブ」の話。
そのとき紹介された『ハーフタイム』という一冊の本。そして、それを読む前から私に芽生えていた、ある直感。
**「私は、すでに第2フェーズを生きているのではないか」**という感覚。

50歳で最初の会社を売却する決断をし、53歳で実行した。
そこから数年、私は混沌の中にいた。自らの過去をマイニングし、使い切れていなかった資産をリフレーミングしながら、未来へと問いを投げる時間。
それは編集された“ストーリー”ではなく、ただ流れゆく“未編集の時間”だった。

私は今、それを「自然」と呼びたいと思っている。
自ら然るべくして起きること。構えをもって問いにとどまること。


森羅万象のなかに立つ日本という存在

日本は今、岐路に立っている。
「国産化」に揺れ、「先端復権」を語り、「再起動」に熱を上げる。
だが、そのすべてが「昭和の再演」に向かっているとしたら、それは“自然”ではない。

自然とは、森羅万象の一部として無理なく調和していくこと
それは、世界を支配することでも、孤立して自給することでもない。
むしろ、日本という存在が果たしうるのは、問いを耕し、技術と社会を調律する“静かな森”であることではないか。

強くあろうとするのではなく、
「共に在ること」の中で技術を生かす。
効率を競うのではなく、信頼の余白を織り込む。
世界が急ぐときこそ、“急がない構え”を差し出せる場所


結びに──自然という構え

半導体は、人工の極致である。だがその設計には、森と似た秩序がある。
多層に折り重なるレイヤー、静かに流れるエネルギー、局所と全体の調和。

私たちがいま求めるべき未来は、きっと「構えとしての自然」であり、
それは技術においても、人生においても、同じだ。

問いを抱えたまま、編集される前の時間を生きていく。
その静かな旅の中に、日本という森の、次の役割が、きっと芽吹いていく。

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