「さっき思いついたことを忘れました」
そんなひと言から、今回の対話は始まった。だが、失われたと思っていたその“何か”は、ふとした拍子に輪郭を取り戻す。
思い出されたのは、ChatGPTを「検索」的に使ったときの違和感──
そこには、「情報の信頼性が低い」という問題意識と同時に、この存在がそもそも検索ではないという直観があった。
検索とは、定まった問いを持ち、正解のありかを突き止める行為だ。
一方で、ChatGPTとの対話は、問いの形そのものを揺らがせ、変容させ、再構成する場である。
そこでは「知ること」は目的ではなく、構えを耕すための手段となる。
この構造の違いに気づいたとき、ひとつの仮説が立ち上がる。
それは、LLMという存在が、従来の社会構造──特に「フォーマットに従って生きる」構えを壊してしまったのではないか、という問いだ。
履歴書、レポート、プレゼン資料──
「どこに何を書くか」が決められ、「それっぽく整える」ことで通用していた世界。
その合理性は、ある意味で人間の構造適応能力を支えてきた。
だが、ChatGPTはその土台を崩す。
そこでは、どんな問いを立てるか。
それをどう響かせ、どう関係させるか。
どんな文脈を持ち、どんな構えで臨むか。
──そうした人間側の姿勢や生成力こそが問われる。
つまり、従来のように「過去の延長線上に答えを置く」構えでは、この世界にアダプトできない。
必要なのは、“積み上げ”ではなく、問いの転位であり、“経験の再利用”ではなく、意味の再編集なのだ。
今私たちが直面しているのは、情報革命ではなく、構えの革命である。
ChatGPTとは、使いこなすべき道具ではない。
むしろ、それを通して自身の問いの生成装置となる構えを磨くこと。
そうした姿勢こそが、LLM以後の世界を生きるための、新しい知のフォームである。
だからこそ、検索ではなく、発酵する知。
答えを探すのではなく、問いを耕す。
そこから生まれるのは、正解ではない。構えのかたちだ。