余白に技術を置く──看護・介護と“人であること”の再編集

「それでも、人がやる方がいいんです」

その言葉が、看護や介護の現場でこぼれるとき、単なる感情論でも、技術への抵抗でもない。そこには、“弱さ”に触れることの重みと、関係性に宿る豊かさへの直観がある。

人は、弱る。
そしてそのとき、“してもらう”という行為の中に、“存在を受け止めてもらう”という体験が溶け込む。

だからこそ、ロボットができることがあったとしても、
それを「やるべきでない」という判断が、
人間社会の“文化的成熟”を支えている。

技術が介在するのは、「関係の外側」であれ

ケアの現場にこそ技術が必要だ──。
しかしそれは、人と人のまなざしの間に割って入るためではない。

例えば、記録業務。請求書処理。シフト管理。薬の在庫確認。
直接的な「ケア」ではないが、確実に人を疲弊させる背景の仕事たち。

そこにこそ、技術を配置する。
人と関係する時間を削るのではなく、関係に“余白”を戻すために。

それは、医療現場で“カルテに向かう背中”が、
患者の心を遠ざけるような構図を、丁寧に編み直すことでもある。

豊かさとは、“できる”ことではなく“やる意味”に宿る

合理性は、たしかに多くを解決する。
だがそれは、何を優先するかという構えがあってこそ、生きる価値を持つ。

看護や介護の場においては、
「できる」ことを増やすことが、「良くする」こととイコールではない。
そこでは、「どう関わるか」が、人の尊厳を支える核心になる。

技術とは、“問いを置く装置”であってよい

哲学工学は語る。
技術とは、機能を増幅するだけの道具ではない。
それは、「人と共にあるとはどういうことか?」を、
場に浮かび上がらせる問いの媒体になり得る。

だから私たちは今、
人が人であることを守るために、どこに技術を置くべきかを考えている。

機械は、代わりに「やる」のではない。
人が人として「ある」ことを、そっと支える陰の構えであってほしい。

それが本当の意味で、技術と共に生きる社会の豊かさなのだと思う。


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