正義が変わるとき──ビジネスの前線から観察者へ

「大人の足なら8分。でも子どもと一緒なら40分かかる」
妻の言葉が、妙に心に残っている。

子育てに携わった時間の中で、効率や合理性とはまったく違う尺度があったという。
待つこと、寄り道を許すこと、立ち止まって何かを見つめること──
そうした「意味のないように見える時間」が、実はもっとも豊かな時間だったのだと。

その言葉に、私はある感覚を思い出していた。
かつて、私たちが「ビジネスの前線」にいた時代。
そこでは、アメリカ的な合理主義──MBA的な思考と行動──こそが「正義」だった。

数値で語れ、速く動け、非効率は切り捨てろ。
それが世界と戦うための構えであり、誰もが疑わずに信じていた。
私自身も、現実のビジネスの中で、確かにそのロジックを武器に戦ってきた。

だが今、この日本で若い世代と対話する中で、はっきりと見えてきた。
彼らは、合理性で物事を判断していない。

むしろ彼らは、

  • 居心地のよさ
  • 誰と時間を過ごすか
  • 自分のリズムを壊さないこと
    といった、目に見えにくい“構え”の方を大事にしている。

そして、それは単なる逃避ではない。
成果主義が個人を消耗させてきた構造に対する、沈黙のカウンターなのだ。

思えば、ドラッカーもまた、第一次世界大戦とナチスの台頭という「合理の暴走」を体験し、
そこから「人間とは何か」「組織とは何のためにあるのか」を問い直した思想家だった。

彼が説いたのは、効率のための人間ではなく、意味のための組織だった。
そして今、若い世代が直感的に大切にしているものの中には、
このドラッカー的な視座の“再来”のようなものが、静かに息づいている。

私は今、ビジネスの前線にいた者としての責任を感じている。
合理という武器を手にして、結果を出してきた側だからこそ、
今の世を、観察者として見つめる構えが求められているのではないかと。

それは、ただ距離をとって批評することではない。
むしろ、次の時代に必要な「構え」を見出し、それを言葉にし、橋をかけることだ。

「子育てに時間の余裕がないとできない」
妻の実感は、社会全体への問いでもある。

合理性では計れないもの。
短縮できない時間。
成果に還元されない行為。

そのすべてが、いま再び「価値」として、
この国の静かな場所からにじみ出ようとしている。


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