昭和の終わりと、未来のはじまりにて

「ミスターが亡くなった──」

ニュースの速報が流れたとき、何かが静かに幕を閉じたような感覚があった。ただの著名人の死ではない。日本という国の”物語”のある一章──それも、「勢い」と「夢」をもって人々が未来に突き進んでいた、あの昭和の物語が、ついに語り終えられたのだと感じた。

長嶋茂雄という存在は、野球を超えていた。彼は「希望の象徴」だった。高度経済成長の真っ只中、苦しくも前向きに突き進む日本人の姿を体現していた。そして我々は、その背中を見て育った。野球少年たちはバットを振り、大人たちは働き、家族を養い、「頑張れば報われる」という時代の信仰を信じ続けた。

だが、その物語はもう、静かに終わろうとしている。

昭和の亡霊──経済成長こそがすべてという価値観は、今もこの国の制度や文化の中に深く根を張っている。だが、すでにそれは誰の未来も照らしてはいない。合理性と成果主義を追い求めてきた結果、心が置き去りにされ、若者は次第に「正しさ」よりも「確かさ」を求めるようになった。

それでも、変化は起きている。いや、正確には、起きようとしている。若者たちの日常の中に、静かな抵抗と再構築の萌芽がある。だが、彼らに全てを託すだけでは、この国の未来は決して豊かなものにはならない。

我々、昭和と平成を生きてきた者たち──いわば”物語の橋”を渡ってきた世代にこそ、果たすべき責任がある。単に「若者に期待する」のではない。彼らと共に、次の物語を一緒に書くこと。時には手を貸し、時には背中を押し、時にはともに迷いながら、新たな構えを築いていくこと。

世代間の断絶ではなく、連なりの中に生まれる共振。
制度からの変革ではなく、日常の選択から立ち上がるムーブメント。

それを起こすのは、何か大きな号令ではなく、「もう一度動こう」と思える一人ひとりの決意なのだと思う。

長嶋茂雄が象徴していた時代は、確かに輝いていた。だが、今、私たちは別の意味での輝き──成熟の輝きを育てていかねばならない。未来は、誰かの手によってではなく、共に差し出す手のなかにこそある。

昭和が終わった。その静かな終焉の先に、私たちの本当の「はじまり」が待っている。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です