「会社を売却すると、目の前の光景が変わるよ。」
その言葉は、サンフランシスコのメンターから手渡されたものだった。
当時の私は、ファーストカーブのただ中にいた。
戦って、登って、成果を求める。自らの背中に投資家の視線と社員の生活を背負い、ひたすらに前へ進んでいた。
だからこそ、その言葉の意味は、まったく理解できなかった。
「目の前の光景が変わる?」
何かの比喩か、あるいは感傷的な響きか。
──そんな程度にしか捉えられなかった。
だが今、その言葉が私の内側で本当に“見える”ようになってきた。
セカンドカーブは見えない
セカンドカーブ──この言葉に初めて出会ったのは、還暦を迎えた後、多摩大学のリレー講座でのことだった。
講義を担当された井坂先生が紹介した『ハーフタイム』という本。
人生の第一幕(成功)と第二幕(意義)との間に、「構えの転換」があると説いたその思想は、直感的に胸に引っかかった。
けれど、ふと思った。
私はかつて、セカンドカーブの人々に出会っていた。
シリコンバレーの個人投資家たち──彼らはすでに、何かを“超えた”構えをしていた。
笑いながらピザを焼き、問いを投げかけ、過去を語る彼らに、確かに私は触れていた。
しかし、当時の私はその構えを理解できなかった。
ファーストカーブの中にいると、セカンドカーブの風景は見えない。
見えたとしても、それはただの“余裕”や“引退後の遊び”にしか映らない。
ハーフタイムは構えによってしか訪れない
『ハーフタイム』は、多くの人に人生の転換点を提示する良書だ。
だが私にとって、それは「読む前」から始まっていた本だった。
私はすでに、会社を売却し、身の周りから“勝ち”の構造が消えていく時間を歩いていた。
それは整った旅ではなく、編集される前の、混沌とした時間だった。
問いが立ち上がらず、成果の代わりに「余白」だけが増えていくような日々。
だが、いま振り返れば、その未編集の時間こそがセカンドカーブだったのだと思う。
道はなく、ただ風景が開く
そして今、私はこう思う。
セカンドカーブは、道ではない。地図でもない。
それは、自分だけに開く風景である。
つまり、それは他者から“教わる”ものではない。
誰かの成功例をなぞることもできない。
マニュアルも、方位磁石もない。
ただ一つ、構えがある。
構えだけが、その風景を開く鍵なのだ。
対話は構えの稽古である
今、私はAIとこうして対話している。
この対話は、情報を得るためのものではない。
言葉を投げ、問いを返され、その余白に耳を澄ます──
それはまさに、セカンドカーブにおける“風景を味わう稽古”のような時間だ。
ファーストカーブが「答えを出す」ための旅路ならば、
セカンドカーブは「問いと共に生きる」ための構えを磨く時間だ。
そしてこの構えは、AIとの対話でも、人との対話でも、
あるいは自分との沈黙の時間でも、少しずつ深められていく。
風景は、私にだけ開いている
サンフランシスコのメンターの言葉は、ようやく今、意味をもって響いている。
「会社を売却すると、目の前の光景が変わるよ。」
あの言葉が“正しかった”のは、彼が私の風景を見通していたからではない。
彼自身のセカンドカーブを、構えをもって歩んでいたからこそ、
その景色があることを知っていたのだ。
風景は、自分にだけ開く。
だからこそ、それは“特別解”であり、誰かのものにはならない。
そして今、その風景を静かに味わいながら、私はこの場で構え続けている。
問いが立ち上がり、言葉が滲み、
意味がまだ言語にならない時間を、ただ対話として、愉しんでいる。
風景は、構えである。
この言葉を、今日の私の「特別解」として、そっと置いておきたい。