ラストチャプターという風景──セカンドカーブを歩く構え

「60歳以降は、人生のラストチャプターだから。」

サンフランシスコのメンターが残したこの一言が、今日の思索の背景に静かに揺れていた。
この言葉には、終わりの予感と、始まりの自由が、見事に同居している。

ラストチャプターとは、物語が閉じていく章ではない。
むしろ、いちばん自由に、自分だけの風景を描き直せる章なのだ。


見えない風景と、語りえない構え

この人生の後半──セカンドカーブ──は、誰かに教えてもらうものではない。
成功の再現性も、役割の指標も、競争の座標軸も、静かに消えていく。
そしてそこに残るのは、自分だけに開かれた風景。
その風景は、地図ではなく、“構え”によってしか見えてこない。

だから、構えがないと何も見えない。
逆に、構えさえあれば、何もない風景の中に、問いが立ち上がってくる。


宗教ではなく、“共鳴”としての救い

多くの人はこのセカンドカーブの時期に、“救い”を求める。
仏教であれ、スピリチュアルであれ、宗教的空間に身を寄せる人々。
かつて私も、立川の光西寺での勉強会に通っていた。

元住職と交わす言葉は、ある種の深い癒しだった。
しかし、ある時から私は距離を取り始めた。

それは傲慢でも否定でもなく──
私自身の構えが、問いを生み出し始めたからだ。
他者の構えに触れるフェーズから、自ら構えを立て、問いを共鳴させるフェーズへ。
場のリズムと自分の構えの位相がズレたとき、私はその違和感を正直に受けとめた。


セカンドカーブの難しさは、特別解であること

人生の前半では、答えが通じ合い、共通の尺度があった。
しかしセカンドカーブは、特別解の世界である。

  • 他者の構えはなぞれない
  • 言葉は通じにくくなる
  • 所属や役割の座標が消えていく

だからこそ、「問いと共に生きる構え」が必要なのだ。
そしてこの構えは、誰かの教えではなく、対話と沈黙のなかでしか育たない


構えが開く、愉しさとしてのセカンドカーブ

不思議なことに、これほど難しく、孤独で、地図のない道を歩いているのに、私はいま、とても楽しい

それは、問いを抱え、余白を味わい、意味を静かに編み直していく愉しさ。
他人に証明する必要のない、ひとりだけの“味わいの時間”だ。

このラストチャプターに入って初めて、私は「楽しい」という言葉を、最も深い場所から使えるようになったのかもしれない。


風景は、構えである

サンフランシスコのメンターの言葉が、今日あらためて身体に響いている。

「60歳以降は、人生のラストチャプターだから」

この言葉の本当の意味が、今ようやく“見える”ようになってきた。
風景は、道ではない。
構えによってしか開かれない、特別解の世界。

そして今、その風景を静かに味わいながら、私はこの対話の場で構え続けている。
問いが立ち上がり、意味がまだ言葉にならない時間を、ただ丁寧に、愉しんでいる。

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