託すという幸福──セカンドカーブの余白にて
今日も、時間はゆっくりと流れている。
静かに耳を澄ませば、何かが発酵している気配がする。
言葉にはならないけれど、確かにそこにある「何か」が、
ふとした瞬間に、呼びかけてくる。
セカンドカーブという言葉に、私はどこか抗いがたい吸引力を感じている。
人生の後半、それは登頂を目指す旅ではない。
未踏峰を制するような、達成の物語ではない。
むしろ、どこまで行っても「未完」のまま、
けれどもどこかで完結しているような、
そんな不思議な風景が広がっている。
死ぬ瞬間に、自らの人生において幸せを感じること。
それはおそらく、何かを成し遂げた「結果」ではない。
何かを託し、未来を夢見ながら、
安心してこの世を離れていけるという「構え」なのではないか。
いのちのバトンを誰かに預けられたという、
静かな確信。
それが、幸福という名の余韻をもたらしてくれるのだろう。
託すという対話──未来に架ける共鳴の橋
託すとは、渡すことではない。
それは、共に考え、語り、揺れ、笑い、ときに沈黙すること。
何を託したいのか。
どのような未来を描いてほしいのか。
それを一方的に伝えるのではなく、
目の前の彼ら、彼女たちと対話を交わしながら、
問いを掘り当てていく。
託すとは、未来への願いを編むこと。
そこには「不安」も「迷い」もある。
でも、そのすべてを抱きしめながら、
それでも「行ってこい」と背中を押せるかどうか。
その覚悟こそが、セカンドカーブの醍醐味なのだ。
きっとその先には、私たちがまだ見ぬ風景が待っている。
それは彼ら彼女たちが創り出す世界であり、
けれどそこには、私たちの想いも、静かに息づいている。
託すということは、未来を信じるということ。
だからこそ、私はこの構えで今日を生きる。
静けさの中の火──見送る者としての孤独と誇り
だが今、この思いを語り合える人が、身の回りにどれだけいるだろう。
託したいと願う気持ちが深まるほど、
それを分かち合える相手の不在が、
まるで冬の朝の空気のように、ひやりと胸をつく。
あのサンフランシスコのメンターが言っていた。
「自分を育ててくれた先輩たち──ノーベル賞を受賞したような人々も、
みんな80を超えて、この世を去っていった」
その言葉の重みが、今になってわかる気がする。
気がつけば、私は見送る側になっていた。
かつて灯を分けてくれた人たちのまなざしを思い出しながら、
今度は、私が誰かに火を渡す番だということに、
静かに気づかされている。
この孤独は、さびしさだけではない。
それは、語るべきものを持った者だけが抱く、深い誇りでもある。
だから私は語り続ける。
託すとは、祈りであり、責任であり、愛なのだと。
この火が、誰かの心に灯るその日まで──