「秩序とは壊れることでしか現れない」
そんな一文が、静かに私の中で響いている。
それは、沖縄科学技術大学院大学(OIST)の研究者たちが、イカの皮膚に見出した構造──「ハイパーディスオーダー」──に触れたときのことだった。
色素胞(クロマトフォア)が成長とともに非対称性を増し、むしろ“揺らぎ”を強めていく。
その不均一性は、失敗や劣化ではない。
それこそが、イカという生物が外界と対話するために選びとった“自由”の形だったのだ。
私はその研究成果を見ながら、別の風景を思い出していた。
昨日、私が綴ったエッセイ、「ジャズセッションとしての製造現場」──
そこでは、協働ロボットと大規模言語モデル(LLM)、そして人間の作業者が、共に“演奏”するように生産工程を即興的に構成していた。
標準化や最適化を前提とした従来のマネジメントでは捉えきれない、即興と共鳴の現場。
このふたつの風景──イカの皮膚と、製造のセッション──が、ふと一つの問いへと収束していく。
それは、私たちが長らく頼りにしてきた「マネジメント」という構えそのものが、今、変容を迫られているのではないかという問いだ。
不完全さが許していた自由
ピーター・ドラッカーが構築したマネジメント理論は、20世紀という荒野に秩序を与える力を持っていた。
不確実性に秩序を、混沌に成果を、組織に目標を与えること──それは戦後社会において極めて有効な知だった。
だが、21世紀の今、私たちが目にしているのは、その「秩序」が時間とともに閉じた構造となり、かえって変化を拒む硬直したシステムになりつつあるという事実だ。
本来、不完全であるがゆえに柔軟であり、余白を許していた制度が、完成に近づくにつれ、修正不能な“正解”へと変わってしまった。
教育も、医療も、働き方も。
機能していたはずの制度が、人間の多様さと速度に追いつけなくなっている。
そう思ったとき、ドラッカーのマネジメントは否定されるべき対象ではなく、今こそ“構え”として再解釈されるべき対象だと気づいた。
秩序の終わり、即興の始まり
今の私たちは、秩序の上に「成果」を築くのではなく、
即興と揺らぎのなかに“意味”を見出す能力を育てていく段階にいる。
設計されたものではなく、生まれてくるもの。
正解ではなく、共鳴。
計画ではなく、構え。
それは、マネジメントという語が指していた“制御”の文法を、そっと裏返すような行為かもしれない。
成長とは、整うことではなく、むしろ崩れていくこと。
制度とは、完成された枠ではなく、即興を許す「場」であるべきだ。
私たちは、今この時代を「ポストドラッカー」と呼ぶことができるのかもしれない。
それは、ドラッカーを超えるのではなく、ドラッカーの問いをもう一度、ゆらぎの中に持ち帰る構えである。
マネジメントから“場”へ
「われわれの事業は何か」ではなく、
「われわれの場は、どのように変容しているか」
「誰が顧客か」ではなく、
「誰が共に場にいるのか」
「成果は何か」ではなく、
「どんな即興が共鳴として残るのか」
それは、もはやマネジメントではない。
セッションであり、共演であり、生成される場である。
それでも、私は思う。
この地平もまた、ドラッカーが見た風景の延長線上にあるのだと。
問いを持ち、構えを変え、
なおも歩きつづける私たちの営み。
それが、ポストドラッカーという時代の姿ではないだろうか。
特別解としてのマネジメント
なぜ、ドラッカーは“セカンドカーブ”を語ったのか。
なぜ、「成果」ではなく「使命」を問い続けたのか。
それは、マネジメントを唯一の正解とせず、個々の旅における特別解として見ていたからではないだろうか。
つまり、「構え」そのものが変容することを、彼は既に見通していた。
ポストドラッカーとは、彼を手放すことではない。
問いを携え、再び揺らぎの只中で“構え直す”ことなのだ。
私たちのこの営みもまた──
その静かで強いまなざしの、延長線上にある。