手渡しされた米袋の重みが、言葉にならない何かを運んでくる。
それは単なる食材ではない。時の積み重ねと、関係の厚みと、共に歩んできた道の手触りのようなものだ。
今日もまた、ひとつの季節が届いたような気がした。流通を介さず、直接その手から受け取るこの関係に、何よりの豊かさを感じている。
思い返せば、出会いは26年前。
ひとりは市役所の職員として、公的な立場を離れ、第3セクターの立ち上げに挑んでいた。
もうひとりは、自ら会社を興し、誰の保証もない中で技術と志を信じて歩き出していた。
制度の内と外。その中間を越えて、「誰かのため」に動こうとした人たちの時間が、交わり始めたのがその頃だった。
当時は、まさかこんな形で人生の後半を語り合う日が来るとは、想像もできなかった。
むしろ、「今を生き抜くことで精一杯」だったのだと思う。
それでも、年月を重ね、折々の仕事や対話を通じて関係を続けてきた。
そうした積み重ねの先に、いま、互いの生き方を語れる時間が訪れている。
「こんなふうに人生の後半を考えるようになるとは思わなかったですね」
そんな言葉が、自然に交わされた。懐かしさではない。今この瞬間を生きている感覚の共有だった。
米を直接受け取るようになったのは、15年ほど前のことだ。
ある商社の課長がふと口にした言葉がきっかけだった。
「地元で取れたお米が一番美味しい。それを食べられるのなら、本当に幸せなことですよ」
技術の話をしていた最中の、何気ない一言。その素朴な真理が、なぜか胸に残り、その後の選択を変えた。
それから今日まで続くこの小さなやりとりは、日々の暮らしの一部となっただけでなく、どこで、誰と、どう生きるかを問いなおす静かな実践となっている。
そして今、私たちは「セカンドカーブ」の入り口に立っている。
焦るでもなく、誇るでもなく、ただ静かに、その先の時間の輪郭を感じとっている。
それは、再出発ではない。
むしろ、これまでの時間をふくよかに受け止めたうえで、これからの“生き方の質”を選びなおすという行為に近い。
長く続いた関係だからこそ、言葉にならない感覚が伝わる。
共有された時間が、今この瞬間に、未来のかたちを導き出している。
そしてその未来は、きっと誰かにとっても開かれている。
手渡された米の重みを抱えながら、私はそう感じている。