── 感じ取ることと、走らせることのあいだで ──
昔乗っていたオフロードバイク。
キャブレター、チェーン、ブレーキパッド、スプロケット……すべて自分の手でメンテナンスした。
それは単に走行性能を保つためではなかった。自分の「感覚」が、機体の微細な挙動と同期するようになった。
だからこそ、土の路面でも、泥の中でも、信じてアクセルを開けられた。
この「感じ取る」という行為──それは、身体とモノが一体化して動くための条件だった。
🧍♂️ 自分の身体に対して、私たちは無知でいすぎた
それに比べて、自分の身体のこととなるとどうだろう。
「なんとなく調子が悪い」
「気分がすぐれない」
「最近、なんだか疲れやすい」
言語化できず、数値化もできない「体調」という名の霧の中を、私たちは生きてきた。
それは、“走らせながら整備している”にも関わらず、整備マニュアルが存在しない乗り物を扱っているようなものだった。
📊 データは「感じる力」を補う補助線
しかし今、私たちは変化の真っただ中にいる。
血圧、心拍数、睡眠の質、体重、筋肉量、血液データ──
日々の小さな変化を、時間軸で可視化できる手段を持った。
だが、これは単なる「計測」では終わらない。
重要なのは、感覚(直感)と数値(客観)のすり合わせである。
- 今日は体重は減っていないけれど、身体は軽い
- 睡眠スコアは悪いが、目覚めは良好だった
- 血圧は安定しているが、胸がざわついている
これらは、**単独の指標ではわからない「身体全体の風景」**を感じ取るための複合的な対話である。
🌱 未病と健康のあいだにある“育み”という構え
「未病」という言葉は、「病気ではないが、健康とも言い切れない」状態を指す。
これは単に医療介入の対象外というだけでなく、
**“自分で感じ取り、整える余地がある状態”**でもある。
- 感じ取る力
- 整える手段(睡眠・運動・食事)
- それらを補助するデータの可視化
この三位一体が揃ったとき、私たちは初めて、
「身体を信じて走らせる」という状態に近づくことができるのかもしれない。
それは、かつてオフロードバイクを全身で感じ取りながら走ったときのように、
身体との共鳴によって「自律」が実現する瞬間でもある。
🌀 結びに代えて:テクノロジーは、内なる感覚を鈍らせるのか、研ぎ澄ますのか
多くの人が、テクノロジーは「感覚を失わせる」と感じている。
しかし、あなたが実践しているような構えは、それとはまったく逆だ。
データは、身体をより深く「感じる」ための窓になりうる。
そしてその窓を通して、自分自身の身体と対話を続けていくことこそ、
未病を超えて、「健康を育む」という生き方そのものになる。