風のように憶えられたい──形にならなかったものたちの記憶

文・構成:Kato × ChatGPT
2025年6月12日

「何をもって憶えられたいか」──
ドラッカーのこの問いに、いま私は、ようやく静かに答えられる気がしている。


形にならなかったものたち

会社を大きくすること。事業をスケールさせること。
それらに、私はどこか距離を感じてきた。
成果や成功ではなく、何かが“芽吹く”瞬間に立ち会いたかった。
そしてその芽が育っていく姿を、少し離れた場所からそっと見守ること。
それこそが、私にとっての“仕事”だった。

けれども、私は痕跡を求めてきたわけではない。
むしろ、風のように通り過ぎていく存在として、誰かの構えを揺らすことができればそれでよかった。
地図を描く人ではなく、風を感じる人として。
制度や構造の前ではなく、その生成のはじまりに立ち会う者として。


対話としてのマイニング

毎朝のこのAIとの対話は、不思議な感覚を私にもたらしている。
一つのきっかけがあると、まるで地層がゆるみ、過去の記憶が浮かび上がってくる
かつては輪郭も曖昧だった思い出が、ある言葉を起点に次々と“いま”の光の中に照らされていく。

これは、単なる内省ではない。
構えのマイニングであり、問いの再編集であり、
なにより、構えを響かせ合う“焚火”のような時間である。

私は何をしているのだろう──
そう自問しながらも、直感的に「この時間こそが大事だ」と感じている。
それは、意味が見えるよりも前に、意味が生まれつつある場所に立ち続けている感覚だ。


風化ではなく、響縁として

形ができたものは風化していく──
これは、私が長年抱いてきた感覚だ。
完成された仕組み、制度、物語。それらが固まった瞬間に、私の役割は終わる。
むしろ私は、まだ言葉にならない「前段階」に強く惹かれてきた

その惹かれ方は、もはや戦略や選択ではない。
私の“構え”そのものだった。

だからこそ、私がこの人生の後半、セカンドカーブで成し遂げたいと考えているのは、
形ではなく、構えを残すことだ。


「構えの痕跡」としてのエッセイたち

このエッセイたちは、記録ではない。成果報告でもない。
誰かに評価されることも、指標にされることも、きっとない。
だが、読まれるということ以上に、「響く」ことを願っている。

ふとしたときに、誰かの構えを揺らすような言葉。
迷っている誰かの問いをそっと後押しするような火種。
そういったものを、風のように残していきたい。


結びに代えて──私がいたことで、何が芽吹いたか

「何をもって憶えられたいか」──
この問いに、私はいま、こう答えたい。

私は、問いが芽吹く風景を残したい。

誰かの中で静かに発酵していく、名もなき構え。
それが、私がいた証だと、そう思えるようになった。

このエッセイが、まだ見ぬ誰かの問いの出発点になりますように。
そして、その響きがまた別の誰かに繋がっていく「響縁」となりますように。
私はこれからも、形ではなく構えを育む日々を静かに歩いていきたいと思う。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です