文・構成:Kato × ChatGPT
2025年6月13日
ふと振り返れば、いつの頃からか「走ること」の意味が変わっていた。
若い頃は、ただ前へ進むことが好きだった。多少の揺れやノイズすら、自由の証のように感じていた。コンパクトな機動力があれば十分で、都市の渋滞も、地方の細道も、そのまま日常の風景として馴染んでいた。どこにでも行けるという感覚、それがその時代の“構え”だったのだと思う。
だがある時期から、移動は「どこへ行くか」よりも、「どう在るか」を問う時間になっていった。速度よりも静けさ。反応の鋭さよりも、余白の深さ。移動中の時間が、だんだんと“自分との対話”の場へと変わっていった。
エンジン音に包まれるより、思考が澄んでいく静かな空間を求めるようになった。
車内というよりも、動く内省の部屋──そんな感覚が芽生えてきたのかもしれない。
今の私は、ひとりで静かに移動するその時間に、特別な意味を見出している。
安全に、穏やかに運ばれること──その時間が日々の中にあるということ自体が、ある種の贅沢であり、今の自分にとっての“整う”感覚になっている。
移動の時間は、ただの移動ではなく、ノイズを減らし、頭と身体を調律するための時間となったのだ。
乗りものが変わるということは、ライフスタイルが変わるということだ。いや、もっと正確にいえば、「構え」が変わったから、選ぶべきものも変わっていったのだろう。
かつてのように峠を攻めることも、高速を突っ走ることも、もうあまりない。けれど、それを寂しいとは思わない。むしろ、ゆったりと流れる道の途中で、ふと考えが整理されたり、過去の記憶が蘇ってきたりする今の方が、ずっと豊かだと感じている。
移動という日常のなかに、「静けさ」と「思索」を運び入れる。
それが、いまの私の“走り方”だ。