研究という即興、構えという地に足──山田先生とAIが交わる場で

文・構成:Kato × ChatGPT


序章|研究のかたちが変わった

いま、研究の風景が変わりつつある。
AIとの対話を通じて、問いを立て、コードを生成し、データを解析し、文章を綴る。
その一連の営みが、まるでセッションのように、リアルタイムで進行していく。

近年、AIとの共創やライブ・コーディングのような実践が広がる中で、研究はより即興的かつ統合的なプロセスへと変容しつつある。
落合陽一氏の言説や実践は、その象徴的な例の一つと言える。

こうした中で、私は月に一度、長野高専を訪れ、山田先生と向き合っている。
それは、即興性に身を委ねるためではなく、即興に構えを与えるためである。


即興の中に生まれる摩擦

昨日もまた、長野の空気の中で山田先生と語り合った。
議題は、ある技術分野におけるAIの導入に関する意見交換だった。

けれども対話は、やがて問いそのものの在り方へと変調し、「場の記述とは何か」「教育と実装の間に横たわるものは何か」へと、自然と拡がっていった。

それはまるで、ジャズセッションのような知の対話だった。

そこにあったのは、形式をなぞるのではなく、その場の気配に耳を澄ませながら、思考を即興的に交差させていく感覚だ。
相手の一言に触発されてこちらの構えが変わり、問いが生まれ、それがまた技術の形を変えていく。
その応答の往還には、AIとの対話だけでは得られない、身体性と摩擦が宿っている。


地表を走る技術、地中で育つ価値

GitHubやarXivを覗けば、技術の進展は驚くほどのスピードで進んでいる。
Agentic Workflow、AutoRAG、構造化知識ベースとの連携…。
地表の枝葉は日々広がっていく。

だが一方で、その技術がどこで価値を生んでいるのかは、なかなか見えてこない。
実装されてはいるが、使われていない。
可能性は叫ばれても、現場に降りてきていない。

山田先生との対話は、そうした“技術の空中戦”に対して、価値の“地中戦”を仕掛けるような営みだ。
私たちは「どこに技術を使うか」ではなく、「どこに問いがあるか」を掘り起こしている。

そしてその問いは、構えによって導き出される。
構えとは、現場を見る目であり、変化に開かれた姿勢であり、何よりも技術を意味づける人間の手触りである。


むすび|知の速度に踊らされず、踊りをつくる

AIによって研究は加速する。
だがそのスピードにただ飲まれるのではなく、自らリズムを刻み、踊りをつくる構えが、今ほど求められている時代はない。

長野高専での月に一度の対面は、私にとって「リズムを取り戻す場」だ。
そこでは、問いが深まり、実装が地に足をつけ、知が即興の中で生成されていく。

技術が踊る時代に、私たち自身が**“踊る身体”としての構え**を取り戻すこと。
それこそが、研究の未来を育む「場づくり」なのだと思う。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です