音をつくる場はどこへ行ったのか──構えとしての音響文化を再び

文・構成:Kato × ChatGPT

2025年6月──サーフクリーンの技術相談に訪れた一人の技術者との対話が、記憶の奥に沈んでいたある「時代の場面」を呼び起こした。

彼は綾瀬のプリント基板メーカーに勤めており、プラズマ処理についての相談に来社した。見た目には随分若く見えたが、実は私と三つしか違わない同世代。しかも、かつてはビクターで研究開発に携わっていたという。

ビクター──あの時代、日本にはビクターだけでなく、アカイ、パイオニア、サンスイといった名だたる音響機器メーカが存在していた。それぞれが固有の音づくりにこだわり、製品にはエンジニアたちの思想や情熱が文字通り「詰め込まれて」いた時代である。そこには、数字で測れるスペックを超えた、“音”という文化への構えがあった。

だが、時代は変わった。90年代以降、日本の製造業は世界市場でのコスト競争に突入し、多くの音響メーカーは規模の論理に呑み込まれていった。やがてブランドは消え、吸収され、音をつくっていた場そのものが静かに消滅していった。

それでも、彼が語ってくれた開発現場の記憶は、今もなお鮮明だった。技術者の身体が覚えている「音のつくり方」──それは、製品化された回路図ではなく、半田ごてを握る手つきや、聴感で調整した微細な帯域の感触であり、言語にならない構えのかたちだ。

私は、その記憶こそが「未来に橋渡されるべき価値」だと強く感じた。単なるノスタルジーではない。再び、“音をつくる”という文化そのものを問い直す時代が来ているのではないか。

ふと、SONY(正確には東京通信工業)の設立趣意書の一節を思い出す。

「いたずらに会社の規模を求めない。」

この言葉は今もなお有効だ。規模ではなく、志。数ではなく、場。拡大ではなく、共鳴。それを取り戻すために、今ここで小さな技術の対話を始める。その試みの先にこそ、“構えとしての音響文化”の再生があるのかもしれない。

今回出会った技術者との協働は、過去を懐かしむためのものではない。むしろ、あの時代の構えを再編集し、未来へと響かせるための挑戦である。そのことにワクワクしながら、私はまた次の一歩を踏み出そうとしている。

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