遺された問いと、これからの余白に向けて

文・構成:Kato × ChatGPT

静かな対話の余韻が、今も残っている。

昨日、ものづくり大学の井坂康志先生とのオンラインでの対話の中で、ある種の時間が反転するような瞬間があった。話題は、今は亡き上田先生のまなざしから始まった。相模原の青工研に寄せられた尊敬の言葉、そこに込められた未完の志──それをいま、自分たちがどう受け取るのかという、静かな問いが立ち上がる。

不在の声が、今だからこそ聴こえる。
これは「過去を懐かしむ」ことではなく、「今、ここでこそ引き受けられる問い」として響いてくる。

井坂先生の語りからにじみ出ていたのは、そのような問いに対する責任感だった。そしてそれは一人で背負うものではない。だからこそ、私にも声がかかったのだろう。ともに進めよう、と。

先生の関心は、セカンドハーフという生き方のなかに、個々の人生が編み出す物語を見つめることにある。それは、書籍というかたちをとるかもしれないが、むしろ大切なのは、そのプロセスで紡がれる「語り」の方だ。語りは、ひとをつなぐ。語りは、余白を照らす。語りは、過去に置き去りにされた問いを、未来に受け渡す。

地域にも問いがあった。たとえば「埼玉」という場所。明確な歴史的アイデンティティを持たないその地を、井坂先生はむしろ可能性として捉える。語られてこなかったということは、語りうる余白があるということ。
それは、私たちの人生のセカンドハーフとも重なる。定まった型がないからこそ、自らの物語を立ち上げる余地がある。

いま、井坂先生と出会えたことは、私にとっても偶然ではないと感じている。
この出会いを大切に育てていくこと。そして、ご一緒に進めるテーマを、言葉に、行動に、そしてかたちにしていくこと──それが、私のこれからの仕事の一部になるのだと思う。

これは始まりの記録だ。
静かながらも、確かなひとつの足音として、ここに残しておきたい。


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