テクニシャンの時代を超えて──科学を科学する構えへ

文・構成:K.Kato × ChatGPT

私たちは今、「科学とは何か」という根源的な問いに、あらためて立ち返らざるを得ない地点に来ている。

それは、AIという存在が、科学の“実行”において圧倒的な力を発揮しはじめたからだ。

科学とは、境界条件を明示し、その条件下で再現可能な結果を導き出す営みである。ある意味で、科学とは「正しく制約された問いの中での最適解」を追求する枠組みであり、それゆえに、AIの最も得意とする領域でもある。大量のデータ、確率的推論、最適化、シミュレーション、そして論文執筆──。優秀なAIがいれば、科学の多くのタスクは“こなす”ことができる時代が来ている。

では、科学に携わる人間の役割はどこに残されているのか。

この問いに向き合う鍵のひとつが、「Science of Science(SciSci)」という領域にある。科学を科学する──それは、科学が持つ構造、制度、歴史、そして無意識的な前提に目を向ける試みだ。単に“何を知るか”ではなく、“なぜその問いが立ち上がったのか”を問う構え。

SciSciでは、科学が社会とどう接続されるか、政策とどう共鳴しうるかが繰り返し議論されている。「policy-based evidence making」ではなく、「evidence-based policy making」をどう実現するか。科学は社会のためにあるべきだという当たり前のようで見失われがちな構えが、再び真剣に問われている。

ライフサイエンスもまた、この潮流に深く関係している。オープンサイエンスの進展、国境を越えるデータ基盤、再利用可能な知の構築──。だが、整備されたデータの向こうに、どんな問いがあるのか。その問いの輪郭が誰によって、何のために定められているのか。そこにはまだ、大きな余白が残されている。

再現性のある科学は、AIとテクニシャンに任せればよい。しかし、問いを開く科学、構えをずらす科学、無意識の制度や前提に揺さぶりをかける科学──それは、今後ますます人間にしかできない領域となる。

大学が生き残る道もまた、そこにあるのではないか。教授という肩書の9割は、自動化と標準化の波に呑まれるかもしれない。だが、残された1割──問いを生き、構えを育てる人々は、むしろこれからの時代にこそ必要とされる存在だろう。

科学を“やる”時代から、科学を“問う”時代へ。

そして、AIと共に“問いの次元”を引き上げていく構えが、今、静かに始まっている。

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