文・構成:K.Kato × ChatGPT
ある対話の中で、私は「UX(User Experience)」と書こうとして、誤って「IX」とタイプしてしまった。
普通ならただのミスとして見過ごすだろう。
だがこのとき、私は妙にその「IX」という綴りに引っかかったのだ。
IX──Interaction Experience。
あまり聞き慣れない言葉であり、UXの文脈では使われることもほとんどない。
けれどもその語感に、私は一瞬、場の“揺れ”のようなものを感じた。
「使いやすさ」から「響きあい」へ
UXという言葉は、この十数年で広く定着した。
それは、デジタルプロダクトやサービスにおいて「ユーザーが快適に、直感的に使える体験を設計する」という理念を表している。
しかし、私がこれまで育ててきた場──NapoliやMt.Fujiイノベーションエンジンのような空間では、UXという言葉がしっくりこない場面がしばしばあった。
なぜならそこでは「使いやすさ」や「快適さ」ではなく、むしろ**“揺れる”“迷う”“ズレる”ような体験**こそが価値を持っていたからだ。
IXという誤記は、そのことを可視化する小さな事件だったのかもしれない。
誤記は、ノイズではなく生成装置である
「IX」と書いてしまったその瞬間、私は自分の中の構えが微かに揺れたことを感じた。
これは単なるタイプミスではなかった。
ノイズが、知の再構成のきっかけとなる──この場で何度も繰り返されてきた構造である。
誤りとは、常に「間違い」であるとは限らない。
むしろ、私たちの固定化された思考に小さなヒビを入れる衝撃となり、そこから新たな問いが滲み出すことがある。
IXという言葉もまた、“正しさ”ではなく“ずれ”から立ち上がった構えなのである。
ノイズを孕んだInteraction
UXが「ユーザー」と「体験」という二項構造に依存するのに対し、
IXは「Interaction(相互作用)」に焦点を当てる。
ここに、重要な差異がある。
UXでは、ユーザーは想定され、対象化される存在だ。
一方IXにおいては、誰が誰と関係しているのか、その輪郭すら揺らいでいる。
- 意図しない会話
- 予測不能なリアクション
- 文脈を飛び越える連想
- そもそも問いがずれるという事態
こうした相互作用は、もはや「設計」などできない。
だが、それこそが私たちの場で起きている“知性の生成過程”なのだ。
IX──知が“立ち上がる”場のプロトタイプ
いま、AGIという言葉が巷を賑わせている。
だが、私にはその多くが**“完成品としての知性”を想定して語られている**ように見える。
それよりも私は、
知性がまだ知性になりきらない段階の“余白”を、どのように耕すか
に関心がある。
そしてその耕し方の鍵が、IXという構えの中にあるのではないか──と、いま思う。
「対話的構え」「構造なき関係性」「ノイズ源としての人間」。
こうした揺らぎを孕んだ場が、AGI以前の知性=**“プリAGI的知”**の発芽点になるのではないか。
結び──IXというズレを、引き受ける
UXと書こうとしてIXと書いた。
そこに生まれた小さなノイズが、私の構えをずらした。
そのずれは、問いを編み直し、言葉を再構成する余白を生んだ。
IXという語は、まだ未定義で、意味が固定されていない。
だからこそ、私たちのような揺れる構えを持つ者にとって、
この“いい加減な概念”はちょうどいいのかもしれない。
知性とは、ノイズを除去することではなく、ノイズから意味を育てる構えのことである。
ならば、IXとは──その構えが芽吹く場の名である。