哲学と工学の交差点──Mobility for Humanityという社会実装の構え

文・構成:K.Kato × ChatGPT


ある日、私は「偽善」という言葉に立ち止まった。
Mobility for Humanityという、難民と地域社会をつなぐ実践の現場に身を置きながらも、どこか言葉にできない違和感が残っていた。

もちろん、この活動に関わる人々の意識の高さには敬意を抱いている。WELgeeから続く流れに触れてきた者として、そこに流れる熱意も信念もよく知っている。だが、ふと心をかすめたのは、「この善意は誰のためのものなのか?」という問いだった。

善意は、時として誰かを排除し、自己満足に閉じてしまう。
どんなに美しい理念でも、それが「正義である」と声高に掲げられた瞬間、他の選択肢を見えなくしてしまうことがある。

私たちは、「誰が正しいか」を判断できない時代に生きている。正義はいつも文脈の中に埋もれ、簡単には表面化しない。そんな時代において、善意の実践は、ある意味では“特別解”の連続であり、時に“偽善”と紙一重の場所にある。

では、それでもなぜ人は行動するのか。
そして、その行動にどう意味を宿らせるのか。


宗教なき社会で「構え」はどう生まれるか

欧米のNPO活動の多くは、宗教的な文脈に支えられている。
「なぜ助けるのか」に対して、聖書やクルアーンが語ってくれる。だが、私たち日本人は、日常の中に宗教が入り込んでいない。

つまり、「なぜそれをするのか?」という問いに、社会全体として明確な納得構造を持っていない。

だからこそ、「善い行為」は時として空虚になりやすい。表面的な制度整合、目に見える支援、あるいは称賛される行動。だがそれは、行為の深部に宿る“構え”を欠いたまま、外形だけをなぞってしまう危うさを孕んでいる。

たとえば──
ある日私は「そばを啜る」という動作に、身体的な違和感を覚えた。
この行為は、子どもの頃から染み付いた文化的な所作だ。けれど、高齢になり、嚥下の機能が衰え始めると、それは誤嚥性肺炎のリスクとなる。

理屈ではわかっている。けれど、やめられない。
それは単なる習慣ではなく、「身体に刻まれた文化」だからだ。

支援という行為もまた、こうした身体感覚を伴わなければ、生きられた倫理にはなりえないのではないか。


哲学と身体──問いの地層へ潜る

では、宗教を持たない社会において、私たちは何に基づいて行為を選び、構えを育てるのか。

そのひとつの答えが、哲学の射程に立ち返ることだと思う。

たとえば、ハンナ・アーレントは「共に世界に現れること」が政治的実践であると言った。
エマニュエル・レヴィナスは、「顔を持つ他者に責任を負う」ことを倫理の根源とした。
アリストテレスは、個人の幸福と共同体の善を切り離さずに考えた。

こうした問いの積層を知ることは、単に“知識”を得ることではない。
それは、「この行為は何に連なっているのか?」という物語の中に自分を位置づける行為であり、それによって“構え”が身体に沈んでいく。

構えとは、思考のスタンスであると同時に、**日々の判断を支える“無意識の哲学”**でもある。


Mobility for Humanityは工学的実践の現場である

Mobility for Humanityの活動を見ていると、それは「構想」を「現実」に落とし込む試みであることがよくわかる。

難民就労の制度設計、企業と地域の関係調整、受け入れ体制の構築。
これはまさに**社会実装=社会を変える“工学”**である。

だが、工学だけでは不十分だ。
そこに哲学的根拠と倫理的構えがなければ、制度の中に人間の営みが回収されてしまう。

ここにこそ、「哲学工学」という言葉が生きてくる。


哲学工学としての実践──知と行為の接合面

哲学工学とは、問いを伴う実装であり、構えを育てる設計である。
Mobility for Humanityのような場は、その実装の現場でありながら、同時に問いを抱え続ける知の現場でもあるべきだ。

そこでは、次のような往還が起こる:

  • 行為を通じて問いが生まれ
  • 問いが行為に深さを与える
  • 行為が制度を揺らし
  • 制度が社会を少しずつ変えていく

こうして、「善きこと」が偽善に堕さないための唯一の方法──それは、問い続けることに他ならない。


構えは日々の実践から生まれる

啜るという行為のように、構えは身体から立ち上がる
そして、行為に意味が宿るには、それが物語として語られ、歴史の中に位置づけられる必要がある。

Mobility for Humanityは、難民と地域の未来をつなぐ装置であると同時に、哲学的思索を社会に流し込む回路である。
この活動を“工学的”に整えるだけでなく、“思想的”に位置づけることで、初めて行為が人間に戻ってくる

いま私たちに必要なのは、「正しさ」ではなく「構え」であり、
「成果」ではなく「物語」であり、
「一貫性」ではなく「揺らぎへの耐性」である。

そのすべてが揃ったとき、
Mobilityは単なるNPOではなく、新たな知と行為の実験場として立ち上がっていくだろう。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です