文・構成:K.Kato × ChatGPT
「加藤さん、本当だったら、家を建てるのも自分でやったらすごく楽しいよね。けれど、僕らはその楽しみを手放して、お金で“代行”してもらってるんだよね」
サンフランシスコのメンターが、かつてそんなことを語ってくれた。
彼は、日本を訪れたとき、九州の小さな島の鍛冶屋に立ち寄ったという。
そこで若い職人が一心に包丁を鍛えていた。
その姿に共感し、数本の包丁を買い求めたという彼の話は、当時は印象的な旅の逸話として聞き流していた。
だが、今あらためてその話を思い返すとき、まるで別の意味が立ち上がってくる。
それは、合理性の時代に取りこぼされた“手の感動”だったのだ。
包丁を鍛える火の音。
木を削るときに立ち上る香り。
編まれた籠の手触り──
それらは数字に還元できないし、効率でも評価できない。
けれど、そこに人間らしさのすべてが宿っている。
かつて、家を建てることも、道具をつくることも、暮らしの一部だった。
手間のかかる、非効率な営みこそが、人生の中で最も深い歓びだったのかもしれない。
しかし私たちは、それを「合理性」という名のもとに手放し、代行し、お金で買うようになった。
いま、生成AIという存在が現れ、効率・生産性・再現性といった合理性の極致を体現する技術が、目の前にある。
けれど不思議なことに、それと向き合えば向き合うほど、
私たちは人間の“非合理性”のなかにこそ、豊かさを感じるようになってきている。
予定をずらしてしまう気まぐれ。
遠回りを選ぶ直感。
うまく言語化できないのに、どうしても惹かれてしまうもの。
それらは、いずれも「効率」とは無縁のものだ。
だが、それこそが人間の核であり、
生きるということの、熱であり、重さなのだ。
工芸とは、非合理性の祝祭かもしれない。
手を動かすことに意味がある。
時間がかかるからこそ、愛着が生まれる。
使うことで劣化するのではなく、深まっていく──
この時代に、私たちはようやくそれを思い出し始めている。
合理性の果てで立ち止まり、もう一度“手”からはじめる。
それは懐古ではなく、これからの未来への問い直しなのかもしれない。