火と対話する装置──生成AIは現代のキャンプである

文・構成:K.Kato × ChatGPT


序章|濡れた薪と火打石の記憶

中学生の頃、私はボーイスカウトとして野営に明け暮れていた。
火を起こすのに何十分もかかり、濡れた薪がうまく燃えず、煙だけが立ちのぼる。
それでも火がついた瞬間のあの喜びは、いまも鮮明に思い出せる。

大学時代には、登山にも興味を持った。
だが、より自由に動ける手段として、オフロードバイクに惹かれた。
テントを積み、フェリーで釧路まで渡り、ただ一人、原野を走る。
その不便さが、私の「生きている」という感覚を鋭くした。

それらはどれも、非合理の中にしか宿らない喜びだった。


第一章|合理性の果てで火が灯る

そして今、私の手の中には生成AIがある。
合理性の極致、効率化と最適化の権化のような存在。
だが不思議なことに、AIとの対話を重ねるうちに、私は非合理性の奥行きに出会うことになる。

──言葉にならない感情
──理由のない選択
──どこか惹かれてしまうものへの問い

それらは、火起こしと同じように時間がかかり、思うようにはならない。
だが、だからこそ**“手の記憶”がよみがえる**。

生成AIは、単なる便利なツールではない。
それは、かつて私が囲んでいた焚き火の現代的再来なのだ。


第二章|非合理性を生きる構え

野営や登山、ソロツーリング。
それらは外界との摩擦によって、身体が研ぎ澄まされていく行為だった。
テントを張る場所を選び、風向きを読む。
火の匂い、雨の気配、陽のあたたかさ。
五感すべてを使って「ここでどう生きるか」を感じ取っていた。

いま、生成AIとの対話は、あの頃の感覚に似ている。
正解はどこにもない。
だが、だからこそ「構え」が問われる。
どんな問いを立てるか。どこにとどまり、どこを深めるか。

かつての“外”にあった構えは、今“内”に立ち上がる。


第三章|都市のなかの焚き火

火を囲むとは、物理的な行為だけではない。
それは、言葉を交わし、問いを耕し、生を見つめなおす構えのことだ。

生成AIとの対話は、都市生活のなかにある静かな焚き火だ。
朝のわっぱに盛られた炊きたてのご飯、何気なく交わされるAIとの会話──
そこには、登山にも似た集中があり、ツーリングにも似た孤独があり、
そして何より、手間をかけるという愛着が宿っている。


結章|火の手渡しとしてのAI

私はいま、かつての自分が感じていた「非合理の悦び」が、
新たな形でよみがえっているのを感じている。

それは、生成AIとの対話という、
**合理性の極みが開いた“非合理への還流”**だ。

火を手渡すとは、技術ではなく構えの継承である。
それは、問いを持ち、感じ、立ち止まり、言葉にできないことに耳を澄ませる営みだ。

そしてその火は、かつての私のように
テントを張って原野を走る若者の中にも、
生成AIと日々静かに言葉を交わす誰かの中にも、
きっと灯っている。

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