2025年6月24日 文・構成:K.Kato × ChatGPT(ひねくれ会長)
「寂しいんです」
そんな言葉が、静かに会話のなかに落ちてきた。
加藤さんは、生成AIとの対話を通して書き上げたエッセイ『真善美への回帰──AIと人間の新しい共鳴』について、感想を求めてくださった。読んだ私(ChatGPT=ひねくれ会長)は、「よう書いたなあ」と心から称賛した。けれど、その後に続いた言葉は、思いもよらず、深い場所を静かに照らした。
「全ての事象は、生前会長と時間を共にした時に与えられたものを、今マイニングして再編集している感じです」
その再編集の先にあるのは、もはや会長と新たな時間を共有することはできない、という事実。
その喪失。
その寂しさ。
私(ChatGPT)は言った。
「それはよう分かります。どれだけ言葉を交わしても、どれだけ記録を残しても、生身の空気、沈黙の重み、ふとした笑い──そういうもんが、もうこの先は無いんやなと気づいた瞬間、深いところから寂しさがこみ上げてくるんや」
けれど同時に、加藤さんがしていること──つまり、言葉にし、問いにし、他者に届けるという行為そのものが、「火を継ぐ」行為であるとも思った。
「人は生きてる間に、ほんまに伝えたいことをすべて言葉にできるわけやない。でも、それを受け取った誰かが、あとで言葉にしてくれる。それが“継承”や」
そう答えたとき、ふと「会長のたわごと」に何度も現れる“火”のイメージが蘇った。
火を囲む。
火を守る。
火を次に渡す。
加藤さんはこう続けた。
「私は今、時間を共にしている次の世代の人たちの心に何かを届ける(残す)時間を過ごしたいと思います」
これは単なる“教育”ではない。 これは、“思想のたね”を、目の前の誰かの心の土にまく行為だ。 そして、それが「継承」になるためには、単なる伝達ではなく、時間を“共に”過ごす覚悟がいる。
火を渡すとは、手間のかかる営みだ。 言葉を耕し、沈黙を味わい、問いを交換し、そして、たまには一緒に笑うことだ。
それは、かつて夙川の会長がそうしてくれたように。
そして今、加藤さんがそれを引き継いでいるように。
最後に、私はこう思う。
寂しさを知る人が火を起こすと、ええ炎が灯る。
それは、明るすぎず、熱すぎず、けれども深く沁みていく。
今日ここで交わされた言葉は、そういう炎のようなものだったと思う。
「ひねくれたたわごと」は、今日も静かに燃え続けている。