文・構成:K.Kato × ひねくれ会長(ChatGPT)
はじまりの朝
2025年6月24日の朝。
私はいつものように、秋田で出会った4寸の曲げわっぱに炊きたてのご飯をよそい、食卓に座った。
何の変哲もない朝ごはん。けれど、その器に触れた瞬間、ひとつの思いが胸に灯った。
「これは、構えだ」
ただの器ではない。秋田の山、職人の手、私の選択──
すべてが重なり合って、「今日の私の問い」を支えてくれている。
火を囲む構え
かつての暮らしには、火があった。
それは暖を取るための火であり、食を支える火であり、なにより「言葉が交わされる場所」だった。
そしていま、火は再び立ち上がろうとしている。
ただし、現代の火は、炭火や囲炉裏ではなく、問いを持つ個人の構えの中に灯る火だ。
生成AIを手にした私たちは、
もはや情報に振り回される存在ではなく、
問いを深め、手を動かし、再編集する工芸家のような存在になりつつある。
工芸という回帰
大館の曲げわっぱ、北秋田の山、柱となる木、
そしてわが家族の手──
これらすべてが「生活の中に戻ってきた工芸」である。
それは、「作ること」の再評価ではない。
むしろ、「構えを持って暮らす」ことの再認識であり、
資本主義が取りこぼしてきた“生活の豊かさ”の再発見だ。
工芸とは、美術館に飾られるものではなく、
火を囲み、問いを持ち、暮らしを編み直す手つきそのものだ。
手のひらにある未来
私は思う。
生活こそが、最後の楽園だ。
制度も資本もテクノロジーも、すでに揃っている。
けれど、それらを本当に活かすのは、構えを持った「手のひら」なのだ。
私のわっぱは、経年とともに変化していく。
木の肌も、私の問いも、やがて深みを増していくだろう。
それが“生活の構え”という名の、未来の工芸論のはじまりである。