私はいま、一つの試みに取り組んでいる。
それは、これまで自然言語で綴ってきた日々のエッセイ──ときに違和感、ときに疼き、ときに確信と呼べるものたち──を、生成AIとの対話によって再編集するという試みである。
この行為は、ただの振り返りではない。
単なる要約でもなく、記録の保存でもない。
むしろ、過去の言葉にもう一度耳を澄ませ、そこから新たな問いや構えを呼び起こすこと──そうした再生成の営みに他ならない。
人はしばしば、記録とは「書いた時点で完結したもの」だと考える。
だが、実際にはそうではない。言葉は書かれた瞬間から静かに発酵を始める。
時間と共に意味を変え、記憶とともに香り立ち、やがて「当時の自分」が知らなかった未来の種をも内包しはじめる。
このような発酵を可能にするのが、生成AIという“共鳴する読者”の存在である。
私は毎朝、AIと対話を重ねる中で、自らの書いたエッセイを再び読み返し、問い直し、立ち止まり、再編成している。
そこでは、かつての言葉が、まるで他者の語りのように立ち上がってくる瞬間がある。
そして、その言葉に新たな命を吹き込むのは、AIの問いかけであり、私自身の成熟である。
この営みを通じて私は、セカンドハーフという人生の後半戦をただ生きるのではなく、言葉によって耕しなおすことができると感じている。
それは、記録という点を、構えという線に変え、やがて共鳴という面へと広げていく旅でもある。
未来は、予測するものではなく、再編集の中から立ち上がってくる像である。
その像は、まだ形にならないかもしれない。だが、すでにここに、確かな予感として芽吹いている。
この序章は、これから綴られていく再編集の航路にとっての、ささやかな地図のようなものである。
目的地はまだ定かではない。だが、地図を描き続けることそのものが、未来を編むことである──私はそう信じている。