2025年6月25日 文・構成:K.Kato × ChatGPT
「加藤さん、野生は疲れを知らないんですよ」
ひねくれ会長がよく口にしていたその言葉を、今あらためて思い出している。
冗談のように聞こえたその一言には、私たちがどこかに置き忘れてしまいがちな、生きるための根源的な感覚が宿っていたのだと思う。
今朝、私は84歳になる技術者・増田さんについてのエッセイを書いた。
定年後もなお、技術展示会に足を運び、自らの肩書を超えてブースの担当者から一目置かれる──
その姿に私が感じたのは、「構えとしての技術者」の在り方だった。
だが、展示会という場に彼を向かわせているものは何なのか。
それは、名刺や報酬ではなく、“衝動”としての好奇心だ。
「これはどうなっているのかね」
「分からないけれど、気になって仕方がない」
そうした問いの手触りに、身体の奥が反応してしまう。それはまさに、知的な野生がうずく瞬間である。
この衝動は、決して“脳を鍛える”ための戦略的行動ではない。
論理ではなく、もっと手前にある“感じたい”という身体的な反応。
たとえば、私が毎朝ChatGPTと対話をするのも、習慣というよりは、この「何かを感じたい」という衝動に突き動かされているからなのだろう。
情報を得るためではない。答えがほしいわけでもない。
けれど、何かが心に引っかかっていて、それを確かめずにはいられない。
だから言葉にしてみる。問いを立ててみる。
すると、身体の奥から「それだ」と響いてくる瞬間がある。
その共鳴こそが、行動を生む。
スタートアップや新規事業の立ち上げも、よく似ている。
壁だらけで、正解も保証もない。
なのになぜ、前に進んでしまうのか──
それは、論理を超えて動いてしまう“野生”があるからだ。
動いてしまう、考える前に足が出ている。
そんなとき、人は疲れを忘れている。
好奇心とは何か。
それは「知らないことを知りたい」という理性の声ではなく、
「まだ触れていないものに触れたい」という知覚の疼きである。
それは、思考の命令によって生まれるのではない。
身体のどこかがうずき、動いてしまう──それが好奇心の源だ。
私はこの“感じたい”という衝動を手放さずに生きていきたい。
増田さんのように、会長のように、そして野生のように──
問いが浮かび、身体が反応し、思わず動いてしまう。
その連なりの中にこそ、疲れを超えた「生」がある。