ある朝、NHK『あさイチ』に映し出された佐野元春の姿に、私は目を奪われた。
そこにいたのは、かつての鋭い眼差しとエッジの効いた言葉で時代に風穴をあけた青年ではない。
だが──いや、だからこそ、今の彼はさらに魅力的だった。
声が深くなっていた。
言葉に無駄がなかった。
その佇まいには、歳月を味方にしてなお進み続ける者だけが持つ静かな強度があった。
佐野元春、69歳。
いま彼は、自らの過去の楽曲を再び手に取り、アレンジを変え、歌詞を変え、時にはタイトルさえ変えて、新たな作品として生み出している。
それはリメイクではない。
再定義だ。
あのとき書いた言葉に、今の自分がもう一度応答する。
かつての問いを、今の構えで編み直す。
そこにあるのは、「変わらぬ自分」を守る姿勢ではなく、
変わり続けることを受け入れながら、それでも火を絶やさずに歩く覚悟である。
若さゆえの衝動ではない。
成熟した者だけが持てる、沈黙を携えた躍動感。
彼の歌が響かせているのは、そんな「ロックンロール」だ。
ロックは叫ぶものではない。
ロックは、構えだ。
若いころ、私は佐野元春の楽曲に出会った。
「Downtown Boy」「ガラスのジェネレーション」──
それらは、まるで矢のように、当時の私の胸に突き刺さってきた。
言葉にならない衝動、名前のない怒りや希望を、音楽が先に言葉にしてくれていたようだった。
そして今、あの曲たちが、また別の輪郭で立ち上がってくる。
いまの佐野元春の声、構え、まなざしで奏でられる「Downtown Boy」は、
若さの疾走ではなく、**時間をともに歩いてきた者としての“静かな連帯”**のように響いてくる。
昔の曲が、今の彼によって再定義されているのと同じように、
それを聴いている私自身もまた、昔とは異なる構えで、その曲と出会い直している。
だから私は、こう感じている。
これは、単なる音楽の再解釈ではない。
過去と現在の私が、佐野元春を媒介にして、再び対話しているのだと。
火は絶えていなかった。
あのときの衝動に、今もまだ、灯が残っている。
そして、その火は静かに、深く、確かに燃え続けている。
佐野元春のロックンロールは、終わっていない。
それどころか今、新しい構えとともに、次の季節を生きている。
私もまた──
そんな火の持ち方を、学びながら歩んでいきたいと思っている。