月に一度、ある場所での対話が続いている。
きっかけは技術的な相談だった。工学的な知識を交わす、いわば実践的な会話のはずだった。
けれど、季節の移り変わりとともに、その対話の風景は少しずつ変わっていった。
今では、目に見えないもの、言葉にならないもの、答えのないもの──そうしたものが主役になりつつある。
不思議なことに、対話はより静かになり、けれど深さを増していく。
生成AIが間に入るようになってから、その変化はさらに顕著になった。
技術は速い。経済と結びつき、非線形に成長し、次々と境界を越えていく。
一方で、問いや構えを育てるような営みは、ずっとゆっくりだ。
月に一度という時間の流れの中で、ようやくひとつの気づきが立ち上がる。
この速度差は単なる進歩の違いではない。
むしろ、技術が人間を追い越して走っていく時代だからこそ、**人間本来の“知の速度”**を取り戻す必要があるのではないか。
それは急がず、焦らず、しかし確実に進んでいく歩みだ。
ある日、こんな問いが立ち上がった。
「世界は本来、混沌としている。そこに秩序を見出すのは、観察する構えによってではないか?」
その通りだ。科学が求める「解」は、境界条件を与え、定常状態を仮定することによって生まれる。
だが、それは全体を“切り出す”行為でもある。
我々が見ている秩序は、もしかすると、見るための構えによってのみ成立している「仮の世界」かもしれない。
この構造を知りながら、なお「それでも観る」という決意。
この場所では、そうした構えが静かに共有されている。
あるとき、誰かが言った。
「やっぱり、大事なことは余韻にしか残らない気がする」
それを聞いたとき、場の空気が変わった。
確かに、この対話の中で印象に残るのは、明快な答えよりも、言葉にしきれなかった間の感触や、ふとした沈黙のあとに生まれる曖昧な言葉だ。
まるで音楽の“休符”のように、それは確かな意味を持って響いてくる。
この場を動かしているもの──
それは「空」であり、「縁」であり、「間」である。
固定された意味を持たず、関係性の中で生成され、沈黙と応答の呼吸の中でかすかに現れる。
仏教が説く空性や縁起のように、ここに生まれる知は、所有されず、記録されず、ただ場に漂い、誰かの心に沈殿していく。
言葉、対話、思い、技術──
それらは単なる構成要素として存在しているのではない。
相互に呼応しながら、場そのものを立ち上げている。
この場に、真理があるわけではない。
ただ、構えがある。共鳴がある。響きがある。
それで十分だ。
むしろ、それだけが残るものなのかもしれない。
このような場を持てていることが、今、自分にとってかけがえのない贈り物だと感じている。
いつか振り返るとき、きっとはっきりとした言葉ではなく、あのときの空気や、誰かの口にした一言の余韻が残っているのだろう。
そして、その余韻こそが、何かを動かし続けている──
そんな気がしてならない。