共鳴から始まる──起業という言葉の再定義

2025年7月14日 文・構成:K.Kato

「誰が責任を持つのか分からない」
「起業なのに、リーダーがはっきりしない」
「アイデアはあるけれど、ゴールが見えない」

そんなチームがあったとしたら、これまでの起業の文脈では“失格”の烙印を押されていただろう。
けれど、昨日、山梨県立大学で行われた「アイデア共創実践」の最終講義で、私はまさにそのようなチームの中に、未来の兆しを見た。

そこにあったのは、「熱意あるリーダー」が牽引する構図でも、「社会課題に挑むヒーロー」の姿でもない。
それは、一人ひとりが静かに違和感を分かち合い、構えを擦り合わせるように生まれていく、“等身大の共鳴”だった。


一人でいたい。けれど、ひとりぼっちではいたくない。

あるチームの起点は、「私たちは一人が好き」という気持ちだった。
そこから彼らは、「一人でいることを選びやすくする社会」に目を向けた。

行き着いたアイデアは、一人旅を支援するサービス
けれど、彼らの狙いは旅行代理店のような“利便性”ではない。
むしろ、「一人でいる自由」を守るための社会的なインフラとして、旅という行為を再編集しようとしていた。

それは、単なるビジネスではなく、構えの実装だった。


寛容さを失った社会に、思いやりの循環を。

別のチームは、OECDの「寛容性ランキング」で日本が低いことを起点に話し始めた。
ただのデータにはとどまらない。彼らはそこから、
**「日本人には心の余白がないのではないか?」**という問いを立てた。

そして導き出されたのは、思いやりが循環する社会をつくるという構想だった。

この問いは壮大で、曖昧で、形にはなりきらない。
けれど、彼らはそれを臆せず見つめ、その構え自体を共有できる仲間と共に、実装方法を模索していた。

彼らにとって「起業」とは、問題解決でも、拡大戦略でもない。
**“世界に小さく風を送ること”**なのだ。


第三の芽──構えから始まる起業

Deep Tech型の起業は、技術と資本のロジックを駆動力とする。
社会課題型の起業は、正義感と共感を通貨とする。

それに対して、彼らの起業は──
願い × 共鳴 × 経済を媒介とする構えの実装

それは、「何かを変えたい」という強い意志の表明ではなく、
「こうありたい」という静かな対話の継続であり、
そしてそれに共鳴した他者と、小さな実装を試みる「ゆるやかな連環」だ。

この動きは、周囲へのインパクトも、自分へのインパクトも、決して大きくはない。
けれど、私は強く感じている。
これは、評価できないが確実に“芽吹いている”動きである。


革命ではない。だが、確実に制度を揺るがす予兆。

この構えは、従来の起業教育では評価されない。
誰が責任を取り、誰が代表を務め、どこで収益化するのか──そうした“型”にはまらないからだ。

しかし、それこそが大切なのではないか。

この時代、起業とは“共鳴を続ける技術”であり、責任の名のもとに構えを殺すことではない。

問いを濁さず、想いを曖昧にせず、仲間と共にゆっくり進む。
そのような営みが、やがて社会の外縁にしみ出し、
新しい評価軸、新しい経済、新しい制度の土壌を耕していくのだろう。


おわりに:これは、始まりに過ぎない。

昨日、私は“起業”という言葉の意味が、確かに再定義されつつある現場に立ち会った。
それは、奇をてらったアートでも、理念の押しつけでもない。
**「共鳴したい」「続けたい」「一緒に在りたい」**という等身大の願いから生まれた、しなやかな動きだった。

私は確信している。
この芽は、静かに、しかし確実に広がっていく。
それは、革命ではなく、共鳴の感染だ。

そして、もしかしたらこの動きこそが──
これからの社会において最も重要な「起業」のかたちになるのかもしれない。

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