東京という都市の雑踏のなかで、ふと出会った一句がある。
人のいない林は楽しい。世人の楽しまないところにおいて、愛著なき人々は楽しむであろう。彼らは快楽を求めないからである。(法句経 第99偈)
2500年前の釈尊のことばが、いまこの瞬間の都市のノイズと共鳴した。
人口密度の高い都市では、快楽は刺激と情報の濁流のなかに紛れ、純粋な静けさはほとんど得られない。
一方、地方に足を運ぶと、何気ない風景や沈黙のなかに、確かに「快楽を求めない者の喜び」が息づいている。
この一句は単に自然を賛美しているのではない。
快楽を追わずとも満ちる静けさ、それを受け取る構えの尊さを語っているのだ。
そして私は気づく。
これは今、我々が生きる資本主義社会への静かな問いではないかと。
快楽を貨幣化した構造──資本主義という現代の渇愛
現代の資本主義は、「快楽」を貨幣に変換する巨大な装置だ。
プロテスタントが説いた禁欲的労働倫理──神への信仰に基づいた誠実な働き方──は、やがて宗教性を失い、成果主義と拡大再生産の論理だけが独り歩きした。
禁欲は欲望に、信仰は効率に、意味は利益にすり替えられた。
その結果として生まれたのが、快楽の連鎖によってしか動かなくなった社会構造である。
これはまさに仏教が説いてきた「渇愛(tanhā)」──飽くなき欲望の連鎖の構造そのものだ。
歴史は繰り返す、しかし、戻る力も持つ
こうした快楽による構造の堕落は、過去にも繰り返されてきた。
しかし一方で、そのたびに人々は**“構え直し”の運動**を起こしてきた。
ルターの宗教改革、禅の登場、テーラワーダ仏教の再評価、さらには近現代のトルストイやガンディーの実践。
そのいずれもが、形骸化した制度や繁栄の果ての空虚さを乗り越えようとする個々人の内なる問いと選択から始まっている。
テクノロジー時代の民主主義──構えによる“見えない投票”
そしていま、私たちは歴史にない新しい局面に立っている。
テクノロジー──AI、SNS、ライフログ、バイオ技術──それらは国家や教会ではなく、私たち個人の手のひらにある。
ここにおいて、未来は誰かによって設計されるものではない。
それは**「私たち一人ひとりが、どんな構えでテクノロジーと向き合うか」という“見えない投票”の積み重ね**によって形づくられている。
- AIを効率化の道具として使うのか、感性の拡張として使うのか
- データを管理と監視に差し出すのか、共感のインフラにするのか
- 古典を「昔の教え」として眺めるのか、「今の鏡」として読むのか
それぞれの問いに対して、答えるのは個人の構えであり、毎日の選択である。
古典との対話──時代を超えて「内なる民主主義」を育む
こうしてみると、法句経や旧約聖書、論語といった古典との対話は、もはや懐古趣味ではない。
それは、情報に飲み込まれるこの時代において、精神の主権を守るための静かなレジスタンスであり、
同時に、テクノロジー時代における倫理的選択を形づくる根源的な訓練の場でもある。
古典は何も変わらない。変わるのは、読み手の構えだ。
そして今、私たち一人ひとりが、その古典とともに「問い続ける者」となること──
それがユートピアとデストピアの分岐点であり、
過去の叡智と未来の技術をつなぐ、静けさへの投票行為なのだと思う。